« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »

2016年4月28日 (木)

◆フィクションとノンフィクション

The_evil_mothers ある映画を観た。

その映画は、すごく努力をした人が、その努力が報われて、欲しかったものを手に入れられる、という、その話自体はシンプルなものだった。
けれど、熱い人が作ったに違いなくて、私は胸うたれた。

一緒にではないけれど、娘も同じものを観た。
やはり感動をしたらしかった。
それで、私たちは映画についての話をした。

その流れのなかで彼女が「でもね、フィクションだもん」と言った。
私は「でもね、フィクションから自分が受けとった感動は、フィクションじゃないんだよ」と言った。「たぶん大切なのはそこ」。

そうしたら、何年かに一度くらいのことが起きた。どうやら、その言葉がちょっと響いたらしい、そんなようす。

いまではその言葉が壁に貼られている。あんまりないことだから、すっごく嬉しい私。

このところの彼女を見ていると、人間って、ある時期に、飛び級みたいなかんじで成長するんだなあ。
と思う。
私がそんなふうに成長したのはいつだっただろう。
記憶にある範囲で言えば、第一次は23歳のとき。第二次はいつだろう、第三次は……そんなことを考えながら、また彼女のことに戻って、私にできることは、もうほとんどなく、だからせめて一緒に住んでいる年長のものとして、彼女の健康には強い関心をもち、彼女が必要としたときはそばにいたい。
倒れそうになったときだけ、支えることができれば、もう私にとってはそれは満点行為。
あとは、私がとにかく元気なときを増やすこと。これが難しい。

絵はセガンティーニの「悪しき母たち」*注*とくに深い意味はありません。

|

2016年4月26日 (火)

*FB*オードリーのカレンダー

Img_1153_2_2 ごきげんよう。

熊本ピアフ公演のときにご縁があった方々の投稿は、ほんとに力強く、私はそこに人間の底力みたいなものを見て、胸を熱くするのでございました。

四月の終わる火曜日の昼下がり

みなさまはいかがお過ごしでしょうか。

今日はオードリーのカレンダーのお話でございます。

ミキプルーンの会社(←なんて言い方しちゃだめね、三基商事株式会社ってお名前なの)、2015年のカレンダーは「シャネルの言葉とパリの花々」というテーマ。

Img_1156_2 そして2016年のカレンダーは「オードリーの言葉とパリの花々」。

このお話をはじめていただいたとき、2015年のシャネルのカレンダーのときね、嬉しかった。

2年目のオードリーも、ほんとうに嬉しかった。

そして先日、3年目、つまり2017年は「サガンでお願いしたい」とご連絡があり、もう、飛び上がるほどに嬉しかったのでございました。

だって。サガンのカレンダーなんて、私みたことないもの。 

きっと、担当の方が、「山口路子の生き方シリーズ」を愛してくださっているのだわ。

なんてしあわせなの。

大好きミキプルーン♡

というわけで、本日の言葉のプレゼントは、4月のチューリップのお隣にあるものから。

わたしはいつも、頭のすぐ上にあるものに

手をのばしてきました。

それがつかめたのは、

わたしがつかむチャンスを逃さなかったから、

そしてものすごく頑張ったからだと思います。

何でも簡単には手に入らないのです」 オードリー・ヘップバーン

|

2016年4月24日 (日)

◆私のゼルダ物語

Img_0949_2_2 3月5日、とても素敵な「出逢い」があって、それはカッコつきでわざわざ表現したいくらいのもので、その人は女性で私よりずいぶん年下なんだけど、私が好きな世界を見る目をもっていて、だから私の作品についてもその目で見てくれて、私は彼女との出逢いにとても感謝している。

その彼女から「ぜひ、読んでみてほしい」と勧められたのが、ゼルダ・フィッツジェラルドの唯一の長編小説「ワルツはわたしと」だった。

私はその長編が収められている「ゼルダ・フィッツジェラルド全作品」を購入。黒い箱、白い本、装丁、美しい本だった。

ゼルダについては、フィッツジェラルドの妻で、自身も創作活動をしたけれども、狂気のはて早くに死んでしまった人、くらいの知識しかなくて、私はこれまでにも何度か、ゼルダと向き合うチャンスはあったのかもしれないけれど、深くふれないままだった。

でも、彼女から勧められたら読むしかない。
「ワルツはわたしと」を私は読んだ。
ほとんど一気に読んだ。
胸のざわめきが激しく、読み終えて、私はゼルダに強く共鳴していた。

夫が芸術家であり、そのミューズとしての役割に満足し得なかったひとりの芸術家の魂のあがき。 そのあがきが行動として現れる様子。

諦めていなくて、表面はどんなに堕落していても魂は諦めていなくて、だから花を、木々を、フォークを、室内装飾を、彼女だけの視点で見つめることをやめない。

その鋭さ。

きっとゼルダと同じ場所で同じものを見ていても、私の目は曇りすぎてしまっていて、ゼルダが見ているものが見えない。

けれど、ゼルダがこう見えた、という言葉にハッとする、そのくらいの何かはまだ残っている。

ゼルダは過去をつらつらと思い起こし、そこに言葉を与えてゆく。

小説としての物語の成功なんか、そこにはない。
たぶん、ゼルダ自身どうでもいいと思っていて、大切なのは、小説としてよくできているか、成功しているか否か、なんていうテクニックの問題などでは、けっして、ない。
ということを明確に差し出して見せてくれる。

私もこういう小説を、やはり死ぬ前に書いておかなければならないのではないか。
私の人生に起こった最大の、あの事件について、私は、ゼルダのように、書きたい。
美しい牢獄での日々のことも書かなければならないのではないか。
書きたい。

そして生存する人々のことを考えて、それが小説にブレーキをかけるようなら、それはまさにアナイスの自己検閲版の日記、矢川澄子が言う「自伝」となるだろう。
それではおそらく、足りない。
私がアナイスの自己検閲版の日記ではなく、無削除版に感動するのは、無削除版のほうが美しく、真実があると思うからだ。
だったらそちらを選ばなければ。

Img_1146_2 と、たいへんなものを読んでしまったと思っていたところに、 これまた、「出逢い」的な女性からお誘いがあったものだから、驚いた。

「ラスト・フラッパー」、ご一緒しませんか。

彼女は、「写真を見て、路子さんを思い出したものだから」と嬉しいことをおっしゃってくれて、つまり、私が「フラッパー」に反応すると思ってのお誘いではなかった。

このお芝居、大河内直子 演出による霧矢大夢のひとり芝居。赤坂レッドシアター。

情報を見て言葉を失った。
「フラッパー」という言葉に反応し、それから、もしや……とは思ったものの、

「作家スコット・F・フィッツジェラルドの妻、ゼルダの生涯を描いた、米国の劇作家ウィリアム・ルースによる一人芝居シリーズの代表作」とあるのだから。

こういう一致には、ほんとうにぞくぞくする。
私、もう少し深く、ゼルダ・フィッツジェラルドとつきあってみようと思う。

「ワルツはわたしと」、たくさんの言葉を書き留めた。
今日の気分はこれ。

一度に二種類の単純な人間になるのって、すごく難しい。
自分だけの法をもちたいという人間と、素敵な古いものは全部とっておきたい、愛されたい、安全でいたい、守ってもらいたい、と思っている人間と

|

2016年4月23日 (土)

◆創作活動を換算する

Img_1140 お金に結びつかない仕事ばかりしているように見えますね。

ある人から言われて、しょんぼりしている。
その人は、悪気があって言ったわけではないのだけれど、よい気持ちはしなかった。

自分でも、いま取りかかっていることが、どれくらいのお金を生むのか、よくわからないまましていることが多いから、そして、調子の良いときは、あんまり気にならないのだけれど、不調のときは、そのことを考えただけで、一日が台無しになるほどに落ちこんだりしている。いまでもそう。

そして、ある人からの言葉でしょんぼりするのは、それがある側面から見れば事実だということだろう。

経済活動としてわかりやすいのは、講演料、印税などだけれど、たとえば、一冊の本を書き上げるまでに、どれほどの時間を費やしたかなんて、まったくわからない。

いままで生きてきた時間すべてがそこに費やされている、という言い方だってできる。

生き方シリーズみたいな伝記めいたものにだって、私の思想があるのだから。

同じく講演料だって、二時間なら二時間の時給ではない。

その講演で話す内容には、いったいどれくらいの時間がかけられていることだろう。

そういう、いわゆる創作活動をお金に換算するのは、難しい、ではなく不可能なのだ。

でもいつまでも、「そんなこと考えないで生きてきたい」なんて、当然だけどそんなのが通用するわけははなく、大きな不安のなかで私は今日も、これがいったいどれほどのお金を生むのかわからないけれど、と思いながらも、創作を続けるしかない。

それにしても、私という存在をお金に換算されたとたん、自分が無価値な、くずのように思えてしまう、これをなんとかしたい。

シャネルには軽蔑されるだろうな。うじうじしていないで、だったらそんな人生をさっさと変えなさいって。

サガンは優しいかも。
マリリンも、寄り添ってくれそう。
ジャクリーンも、意外と寄り添ってくれそう。
オードリーは、大丈夫大丈夫、って励ましてくれそう。
ピアフは、あなたをそんなふうにしょんぼりさせるやつをつれてきなさい、って怒りそう。
マリア・カラスはどうかな、もっと働きなさい、ってはっぱかけられるかんじ。

写真は今朝、やさしいお友達が送ってくれた、マリア・カラスとマリリン。

ケネディ大統領の誕生日、マリリンがあの「ハッピーバースデイ ミスター・プレジデント」を歌った、あの誕生日。
マリア・カラスの歌がかすんでしまうほどのマリリンの存在感、パフォーマンス。

やっぱりマリリン好きだな。今年のマリリンの命日8月5日にはなにかしたいな。経済活動には結びつかないだろうけど。

今日もずっと原稿書き。
昨日も今日も一歩も家から出ないでいるから外の気温がわからない。

|

▽女と男のいる舗道

Image1_2 すてきな殿方から、
「この映画のアンナ・カリーナがかなり魅力的」と勧められて、観たゴダールの『女と男のいる舗道』。
ほんと、このアンナ・カリーナ、とってもいい。
『気狂いピエロ』でしか知らなかったけど、ピエロよりこっちのほうがずっと好き。

なんていうか、もちろん若さゆえの美しさもあるのだけれど、内面の美しさを、監督が描こうとしている、そういう、アンナ・カリーナに対する、尊敬愛情丁寧さが伝わってくるから。
なかでも11章の「シャトレ広場 見知らぬ人 ナナは知らぬ間に哲学を……」
がとってもよかった。

カフェで偶然出逢った哲学者と、アンナ・カリーナ演じるナナとの会話。
これ、きっと、台本とかなくて、ぜんぶ、そのときのそれぞれの会話、そのままなんじゃないかな。アドリブ。そんな気がする。
懸命に人生について知ろうとするアンナ・カリーナの表情、それに答える老哲学者の表情、目が離せない。

いっぱいセリフを書き留めた。
そのいくつかを。

――何か言おうとして、言う前によく考えているうちに、いざとなると、もう何も言えなくなってしまうの。

アンナ・カリーナのこの告白は、まさに、いまの私の状況そのものだったから驚いた。
これだけでも、観るべきときに観るべき映画だったんだ、と思う。
そして老哲学者の答え。
――人生を諦めたほうが、うまく話せるんだ。
――人間は揺れる。沈黙と言葉の間を。それが人生の運動そのものだ。

私は、いまは沈黙のときなのかもしれない。
それでもそれを含めて人生の運動というなら、少しだけ気が楽になる。

ゴダールのミューズ、アンナ・カリーナ。
私のミューズ・コレクションに新たに加わったひと。

|

2016年4月22日 (金)

*FB*マリア・カラスのライヴ ご報告

13001194_982917245138497_8213808384 ごきげんよう。

九州で大変な想いをなさっている方々や、その周辺で起こっている事柄に、さまざまな想いを抱きながら、それでも、自分がいますべきことを見つめることに、なんとか集中しようと、気を奮い立たせる金曜日の午後。

みなさまはいかがお過ごしでしょうか。

本日は、水曜日の夜、銀座シグナスでのライヴ、「マリア・カラスへのオマージュ」のご報告でございます。

観客のみなさまの想いを、ステージでこんなに感じたのは、はじめてでした。
みなさまのお気持ちが前のめりになっている、そういう表現でよいのでしょうか。
とにかく観客のみなさまの想いが、私の想いをさらに高めた、そんなステージ。

黒川泰子さんの歌は、やはりすばらしく、あまり聴き入ってしまうと、泣いて語れなくなるから、ほどほどに気をそらさないといけない、という、拷問のような時間。
ピアノの北川美晃(きたがわよしあき)さん、そしてヴァイオリンの西垣惠弾(にしがきけいた)さん、おふたりの演奏にも、心うたれました。

音楽って、いい。

……感動すると、私はひじょうに単純な言葉しか、出てこないのでございます。

最初にすばらしい歌をご披露くださったカンツォーネ&クラシックシンガーのSNNJOさんからいただいた、
「ここ数年の中で私には一番のライヴ」
という、うそみたいに嬉しいお言葉、胸に大切に抱いて、前にすすんでゆこうと思います。

本日の言葉のプレゼントは、ライヴの朗読のなかから。
マリア・カラスの言葉として。

「私がもっとも我慢ならないのは、ふつうの仕事を、ふつうの水準でやれ、と求められること。最高のものしか、私には要求してほしくないし、最高のものしか、私は見せたくない」

|

2016年4月14日 (木)

*FB*「語りと歌のコンサート」マリア・カラス

Maria_c_2 ごきげんよう。

ねっとりとした空気だけれど、なんだか私のことが好きで貼りついている殿方みたいで愛しくなっちゃう昼下がり。
みなさまはいかがお過ごしでしょうか。

語りと歌のコンサート「マリア・カラスへのオマージュ」。
来週の水曜日4月20日が迫ってまいりました。

お席、そんなにたくさんではないけれど、ご用意できますので、
「あ。偶然その日あいてる」
みたいな方は、ご連絡くださいな。

みなさまに、私と黒川泰子さんの舞台をご覧いただきたいです。

というわけで本日の言葉のプレゼントはもちろんマリア・カラスから。

「裏切られた妻の役は私のレパートリーにないのよ」

まあ。 すてきなセリフ。
これは応用して使えそうね。
「・・・・・・・」

いま、いろんな応用編が浮かんだけれど、差支えがあるからやめておくの。

|

2016年4月11日 (月)

◆加藤登紀子の「ピアフ物語」

Image1_2 4月7日木曜日の夜は、新宿のロシア料理のお店「スンガリー」で、格別のひとときを過ごした。

加藤登紀子さんから、食事会へご招待いただくという、嬉しい事件が起こったのは、もちろんピアフのおかげ。

「加藤登紀子コンサート ピアフ物語」
山形からスタートして文化村オーチャードホール、そしてパリ公演。

食事会へのご招待は、私の『エディット・ピアフという生き方』を読ん でくださって、それで、興味をもっていただけたから。
私はといえば、

あなたは加藤登紀子というアーティストの熱心なファンですか?
と問われたら、
熱心とは言えないかもしれないけれど、長い時間、ずっと追ってきたアーティストです、
と答える。

私をこの世界、そう、芸術、美の世界にひきいれた恋人、私より17歳年上の人が、加藤登紀子のことをすごく評価していた。僕らのアイドル、って言っていた。獄中結婚したときにはね、相手がうらやましくって、ちきしょーって、思ったもんだよ、って言っていた。
もう、25年前の話。

その年上の恋人は、彼なりの、当時の私にはまぶしかった思想をもっていて、その恋人が評価する加藤登紀子って、普通の歌手じゃない、とそのとき私は感じとって、それから私のなかでは、ほかのアーティストとは違う場所に住んでいた、そんなかんじだった。
大好きな中森明菜の「難破船」も忘れてはいけない。

軽井沢時代、どうにもこうにも苦しくなって、この「美しい牢獄」を脱出して、なにかにふれなければと思いつめてネットでイベントを探した午後。その日の夕刻に高崎か大宮だったか忘れてしまったけれど、とにかく新幹線停車駅で、加藤登紀子コンサートがあることを知り、会場に電話をして当日券があることを確認、新幹線に飛び乗ったこともある。

そのとき加藤登紀子は「愛の讃歌」を歌った。加藤登紀子の歌詞で歌った。「ずっと歌えなかったけれど、そろそろいいよね」と言って歌った。胸にしみいった。

CD、手もとに残っているのは3枚。
なかでも「シャントゥーズ ・トキコ ~仏蘭西情歌~」、
シャンソンだけを集めたアルバムは私に強く影響していて、つまり、「日本語で歌っちゃうシャンソンって、どうも私はなじめない」と思っていたところに、これならいける、とはじめて日本語のシャンソンに聴き惚れた、そういうアルバムだった。

それは加藤登紀子というひとの言葉の選び方から、そしてあの声、あの歌唱法すべてがそろわないと無理なもの……と、素人だけど言ってしまおう。
そう、音楽のことはわからないけど、言葉の世界に生きている私にとって、歌詞って、すごく重要で、その歌詞がすごくいいのだから、もうそれだけで充分なところに、あの語りかけるような声があるわけだから。
ピアフを書いているときにも、もちろん意識はしていたし、原稿、本文中に加藤登紀子についてふれてもいた。いろいろ考えて最終的にはピアフを歌う日本人のことはいっさいふれないことにしたから削ったけれど。

そのようなかんじだったから、その食事会の日を前にして、やはり胸がときめいたし、一方で不安だった。
不安というのは、やっぱりこれ。……お会いして、嫌な人だったらショックだなあ、という不安。
いままでにそういう経験があったから、祈るようなきもちで出かけた。

そして。

隣の席の加藤登紀子さんは、威圧感のない存在感をもつひとだった。……あんまりほめると媚びめいていて嫌なのだけれど……、実際、魅力的なひとだった。
私への気遣い(これがものすごくあたたかい)、そしてピアフへの愛情(熱烈な愛情)。
彼女くらいの人だったら、いくらでもピアフのことを調べてくれるブレーンはいるだろうに、彼女は自分自身でピアフと向き合わないと納得しないひとだった。
疑問に思ったところはどこまでも調べ上げて、そしてご自身のものにしてゆく。
ピアフに関する本を読み、ピアフを知る人に会い、ピアフを聴き……。

私は彼女の話を聞いて胸うたれていた。
そして確信した。
もうすでに強烈に「加藤登紀子のピアフ」は存在している。

私だって全力であの本を書いた。
そしてあの本のなかには「私のピアフ」が存在している。そう自負しているからこそわかる。偉そうかもしれないけど、本当にそう思う。
私は、その人にしか表現できないことを表現するアーティストが好きだし、自分もそうでありたいと思っている。そうでなければ存在意義なんてない。

「加藤登紀子のピアフ」「加藤登紀子だけのピアフ」。
いったいどんなピアフがあらわれるのだろう。
私は、その場に居合わせたい。
キーワードはきっと「マレーネ・ディートリッヒ」。
私がいつも加藤登紀子と重ねるディートリッヒ。
ピアフを愛し愛されたディートリッヒ。
Piafmonogatari_860_
 

|

2016年4月 7日 (木)

◆青鬼の褌を洗う女

Img_0971_3私は然し浮気は退屈千万なものだということを知っていた。

然し、退屈というものが、相当に魅力あるものであり、人生はたかだかそれぐらいのものだとも思っていた

電車のなかで読みふけった「青鬼の褌を洗う女」。大好きな坂口安吾。
『白痴』のなかに収められている中編。
ヒロインのセリフがこの小説全体に、薄い霧のようにたちこめている。
私は昨夜の『桜の森の満開の下』に続いて安吾にふれて、とてもなつかしい、いるべき場所に帰ってきたような気がしている。

退屈、人生はたかだかそれぐらいのもの。
なんか、この感覚が、よくわかるように思う。

何をしていても、うすい霧のように、あるものがたちこめている。
それにどんな名前をつけたらよいのか。
安吾みたいに退屈? それともサガンみたいにシニック?
虚無? むなしさ? 孤独のさびしさ? ……やっぱり退屈……?

これから解放される道が一つだけあることを私は知っている。
でもそれは一人では不可能なこと。
そしてそんなに人生には訪れないこと。
情熱恋愛。

でも、どうしよう、それすらも、このうすい霧をはらしてくれないとしたら。

雨はやっぱりそう。内省を呼びこむ。

|

2016年4月 6日 (水)

*FB*桜の季節の憂鬱

ごきげんよう。

今年は東京の桜を見ることもなく、桜の季節が終わろうとしていて、やがて大好きな葉桜の季節がやってくるのだわ……と、アンニュイ気分をきどって通りを眺める朝。
昨夜の坂口安吾の『桜の森の満開の下』を読んだせいね。
ほんとうに怖ろしく、でも有無を言わせない、なにかすごく完結した美がある世界……。

みなさまはいかがお過ごしでしょうか。

人が、深い意味もなく集まってにぎやかにしている様子。
このことに、生きていくのが嫌になるほどに拒絶反応なシーズンもあるかと思えば、わりとすんなり流せるシーズンもあったりして。
人生はだから、彩りだけは鮮やかなのね。
いまはだめなシーズン。

映画のお話二つ、ブログを更新しておりますので、ご覧くださいな。

本日の言葉のプレゼントは、映画『追憶と、踊りながら』から。

「私は学んだの。 いつも幸福でなくても満足することを」

『追憶と、踊りながら』
http://www.michikoblog.com/blog/2016/03/post-4bff.html
『アリスのままで』もよい映画だったわ。
http://www.michikoblog.com/blog/2016/04/post-967f.html

|

2016年4月 4日 (月)

▽アリスのままで

A_2 自殺さえできないんだ。

美しく死ぬことは許されないことなんだろうか。

そんな想いが残った。

『めぐり逢う時間たち』以来、気になって、追いかけている女優ジュリアン・ムーア主演の映画、『アリスのままで』。

言語学の教授という、思いっきり知的で、思いっきり言葉の世界に生きている女性が若年性アルツハイマーによって、みるみるうちに記憶をなくしてゆくという物語。

物語の冒頭シーンがなんたって、ヒロインのアリス、50歳の誕生日の食事の席。
あとひと月も経たないうちに50歳の誕生日を迎える私としては最初から、他人事にはならない。

どんどん症状が進行してゆくなかで、ヒロインのアリスは自分に向かってのビデオレターを作る。
娘の名前が言えなくなったら、このフォルダーを開けと。
そして、そのビデオレターには、未来の症状がもっと進行した自分への「指令」が語られる。つまり、一瓶の薬を水で流し込み、そのまま眠りなさいと。
もう自死とかそういうのがわからなくなっているに違いないから、とにかく、あの部屋に行って、引き出しのなかの薬を取り出して、それで飲んで寝るのよ、っていう指令。
でも症状が進行したアリスがたまたまそのフォルダーを開いて、指令の通り動こうとしたときには、もう遅くって、つまり、症状が進行しすぎていて、その指令の通り、できない。

それが私にはやりきれなかった。

家族に迷惑はかけたくないよね。

だからもし、記憶がなくなってゆく病気になって、娘さえ判断できなくなるようなら、その前に自分で命を終えたい。

そう願って、どうしたらいいのかなんてことをいつも考えているけれど、この映画は、同じように考えている人がいて、それでも、うまくいかないんだ、それを含めて、人生ってやっぱり過酷なんだ、っていうことを私に再確認させた。
この映画の原題は「STILL ALICE」。

まだアリス、いつまでアリス……いつ、どのような時点で人はその人でなくなるのだろう。それとも永遠にその人であり続けるのだろうか。

アリスは、娘の名前が思い出せなくなったときを、「ある時点」と決めた。

STILL ALICEってタイトルは、決断を下すことの難しさを語ってもいる。

何をもって、私は自分をMICHIKOだとしているのか。
何が失われたとき、「STILL MICHIKO」と言えなくなるのか。
そう考えてゆくと、ほんとうに、あらゆる事象が儚くて、たまらなくなる。

アリスが症状があまり重くないときに、同じ病を抱える人たちの前でスピーチした。
このスピーチの場面が物語の一つの山場でもある。
そのなかで、彼女が語った言葉、アルツハイマーという記憶や思い出を奪ってゆく病が進行してゆくなかで、彼女が言った言葉は、やはり重く深く胸に沈んだ。
「瞬間を生きるということ。それが私のできるすべてです」
私の言葉でもある。

|

« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »