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2016年5月31日 (火)

*FB*『私は私 超訳ココ・シャネル』重版のお知らせ

12871461_276826222658105_1844764610 ごきげんよう。
昨日は、とっても肌寒くって、ずっと暑かったのに、あんなふうに寒くなられると、なんだか燃えますわね……と意味不明、そんな五月の終わりの昼下がり。

みなさまはいかがお過ごしでしょうか。

さいきん、嬉しいことばかり訪れていて。
こんなことは我が人生ありえない……こわい……なにかイケナイことが起こるに違いない……とびくびくしておりましたら、スイカつきのクレジットカードを紛失するという……人生初の事件が起きました(涙)。
でも、この事件で±ゼロ。すっきりとして、みなさまに嬉しいことのご報告ができるというものでございます。

はい、最新刊である『私は私 超訳ココ・シャネル』が、また重版となりました!
3刷です。
3月の発売にしては、とっても良いペースではないこと?
嬉しいのでございます。
というわけで記念撮影。ぱちっ。

本日の言葉のプレゼントはもちろん、『私は私』(私のお友達ったら、ワタシハタワシ、とか言っていじめるの)。
目をぎゅっとつぶって、パッと開いたところ。

――あなたを愛しているかどうか、
それは私が独立できたときに答える。
あなたの援助が必要でなくなったとき、
私があなたを
本当に愛しているかどうかわかるから――。

まあ……シャネル……、あなたって、ほんと最強。

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2016年5月27日 (金)

◆思いがけない、けれど最高の、贈り物

Fullsizerender これは書き残しておきたい。

私が大好きなアーティストの方から、贈り物をいただいた。

送り先の確認で、事前に「なにかいただける」ことは知っていて、それが彼女も同じものをもっている、そういうものであることはわかっていて、なんだろうなんだろう、って推理したけどぜんぜんわからなくて、だからその包みを発見したとき、わあ、と胸で声をあげてすぐに開けた。

虚を突かれた。

そこには、私の小説『女神 ミューズ』があった。

お手紙があって、それを読んだ私は、目と胸のあたりがぐわっと熱くなって、しばし、たたずんでしまった。

以前、このブログに、『女神 ミューズ』が出版社から連絡がないまま絶版になっていたこと、在庫が一冊もないこと、当時は数万円の値がついていて中古での購入も難しかったこと……などの恨みつらみを書いた。

ああいうことは書かないほうがいい、と注意する人もいたけれど、削除はしていない。

その記事を彼女はお読みになって、心いためていて、そしてたまたま、中古で一冊入手できたから、まだ『女神 ミューズ』を読んでいない方に、ぜひお譲り下さい、と送ってくださったのだ。「私も大好きなミューズ、いつか復刊されますように」という言葉とともに。

私がどれだけ感動したか、おわかりでしょうか。

私は、彼女が私のこの小説をほんとうに愛してくれているんだ、って、そのことがとっても嬉しかった。

そして、それをこのような形で表現してくださったことが、その気持ちが、ほんとうに嬉しかった。

私は恵まれすぎている。このような方々に、どのようにして、私が受けた愛情をお返ししたらよいのだろう、本気で考えてしまう。

そして、彼女との出逢いを思い返す。

いまからちょうど一年くらい前に、とある画廊のグループ展で知り合ったのだった。

彼女の作品を観に行ったわけではない。別の目的で訪れた画廊だった。

彼女は入口近くにいて、綺麗な方だなあ、と私は見惚れて、それから、いろんな流れで、彼女を紹介されて、そうしたら彼女は、山口路子さんって、あの山口路子さんですか。私、『女神 ミューズ』大好きです、っておっしゃったのだった。

私は、しばらく信じなかったように思う。なにかの間違いではないですか、みたいなことを言ったのだと思う。だって、ほんとうに嘘みたいだったから。

でも、嘘じゃなかった。それは小さな奇跡だった。

私の大切な大切な本を、大切に読んでくださっている方に私は出逢ったのだ。

彼女はいまでもミューズのラストを目に浮かべると、せつない気持ちになる、自分にとって大切な物語です、と言ってくださる。

彼女は、私よりずっと年下で、とっても美しい。

彼女の創作に対する、懸けているものの重さ、形が私はとても好きだ。ほんものを創ろうとしているひとだと思う。

そんな彼女が「大切な物語」と言ってくれる『女神 ミューズ』の作者として、私、恥じないような作品を書き続けてゆかなければ。

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*FB*六本木ツタヤに「生き方シリーズ」

13293108_1739746142970998_275673580 ごきげんよう。

このところ、ほんとにお気に入りのバスローブを身にまとって、お友達から届いた嬉しい写真にほほ染めて……早く眠らなくちゃ美容に悪いわ、と自分を諫めながらパソコンにむかってしまういけない私。

深夜のエントランス。みなさまはいかがお過ごしでしょうか。

とっても心優しいお友達から、「生き方シリーズ」がたくさんある写真を送っていただいたものですから、一刻も早くみなさまにお知らせしたいと思うのはこれ、人情というものでございましょう。

メッセージには「六本木ツタヤ」とあったけれど……じーっと写真を眺めれば、きっとここは、六本木ヒルズのTSUTAYAではないかと……未確認情報ですけれど。

なぜかピアフがいないのが気になるけれど、それでも、こんなに嬉しい。

私、がんばって、(いろんな事情があって苦しいんだけど)、「生き方シリーズ」、もっともっと充実させるわ。

ほんとに単純だと思うけど、こういう出来事(私の本を並べてくれた書店員さんの存在、そして写真を撮って送ってくれたお友達のお気持ち……感涙よ)によって、私、こんなに励まされて、あたたかな気分になって、よーしがんばるぞー、なんて思えたりするのでした。

というわけで本日の言葉のプレゼントは、サガンから。

――幸福なときが正しくて不幸なときは間違っている。

大好きな言葉。

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2016年5月17日 (火)

◆ヴィスコンティと荻昌弘と私と

Img_1288 恵比寿ガーデンシネマで上映中のヴィスコンティ、『山猫』が4Kっていう、ものすごく美しい画質で観られるからぜひ、とお友達に勧められて、3時間以上という長時間、鑑賞。

結果。
帰宅後、仕事しようと思ったけどできなかった。
その日のエナジーをすべて使い果たしてしまった。抜け殻みたくなっていた。すごい映画を観た時の、現象。

本物だけがもちうる美があった。
本物を知り、本物を愛する人だけに可能な作品がそこにあった。

以前、20年以上前、自宅の小さなテレビでも、その圧倒的な世界観、その雰囲気だけは伝わってきたけれど、今回、映画館で観て、あらためて、ヴィスコンティという映画監督の、なにか、ものすごい執念を見たように思った。

『山猫』については、もう、いろんな人が書いているし、私は、やっぱりちゃんと理解しているとは思えないんだけど、でも、バート・ランカスター演じる老侯爵(老、っていっても、私とあんまり年齢変わらないのでは?)が、その人生のなかで直面する、時代の変化があって、その時代の変化に、どのように対応してゆくのか、というのが、ひとつのテーマになっていると思う。

あと、個人的な「老い」。

私は、だからすごーく、この老侯爵に感情移入して観てしまって、時代の変化に自分はどのように対応してゆくのか、老いとどのようにつきあってゆくのか、そんなことを重ねながら観ていた。

そして、ヴィスコンティって『ベニスに死す』(これ、私の特別な映画、大好き)のときにも強く思ったけど、自分自身を描く人なんだなあ、ということも感じた。老侯爵はヴィスコンティの自画像そのものだと。

『山猫』制作時、ヴィスコンティは50代後半。

それで、帰宅して抜け殻状態なものだから、仕事は諦めて、愛読書の一つ『荻昌弘の映画批評真剣勝負』を開いた。
この本のことは、『うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ』のなかにも書いている。絶賛している。
たしか荻昌弘は『ベニスに死す』についても書いていたはず、と記事を探して読み始めて、ひとりで声をあげた。
こんな文章があったから。

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ヴィスコンティとは、つねに他から原作を借りながら、結局映像では自分しか語らない、そんな人だ、というのである。
「白夜」「山猫」「異邦人」。……あれだけ著名文学の映画化にいそしみながら、結局この巨大なイタリア演出家が映像に描きあげるのは、「原作」ではない、つねにヴィスコンティ自身の自画像なのだ、ということである。
+++

私が感じていたことは的外れじゃなかった、と知って嬉しかった。好きな作家と似たように感じられていたことが嬉しかった(もしかしたら、自分の深いところにインプットされていたのかな。覚えていないけれど、そういうことはあるだろうから)。

嬉しい、のあとに、「あれ、どこかで似たようなことを自分が書かれていた」ということを思い出した。
そうそう。
『うっかり……』の「解説」で、千葉望さんがこんなふうにお書きになっていた。

+++
さて、文章を通じて私に見えてきた山口路子という女性は、徹底した自己愛の人である。前作『彼女はなぜ愛され、描かれたのか』は、十八人の名画のモデルとなった女性を美神(ミューズ)ととらえ、画家と彼女たちの関係に分け入った美術エッセイだったが、実はそこでも本当に描かれていたのは、山口路子その人であった。アルマ・マーラーやヴァリ・ノイツェルを書きながらも、自分のことを語った。本書『うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ』は、絵画から文学や音楽に題材を移したが、やはり本当のテーマは彼女自身なのだと思えた。
自分はいったいどんな人間なのだろうという問い。自分をもっと知ってほしいという欲望。両方とも山口さんにおいてはひそやかなものではなく、熱帯地方の花のように強い芳香を放って、読む者にまつわりついてくる。
ある人は同室の香りに引き寄せられるだろうが、人によっては強烈過ぎてむせてしまうかもしれない情熱が、この人の持ち味である。
+++++

いま、書き写していて、千葉さんがお書きになりたかったことがわかるような気がする。
そして千葉さんの鋭さに、いま、あらためて敬意をもつ。

ほら、ヴィスコンティから、こうして自分の話になってしまう。私は「徹底した自己愛」の人。
でも、千葉さんがおっしゃっている「強烈過ぎてむせてしまうかもしれない情熱」、薄れていたら嫌だな。そういう「老い」は嫌だな。

そんなことまで考え、昨夜はなかなか眠れず。たぶんこれ、ヴィスコンティの映画の影響力の大きさを物語っている。

『ルートヴィヒ』はさらに長い4時間越え。体調のよいときに行かないと。

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*FB*バスローブ・マジック

Img_1283 ごきげんよう。

アンニュイでオッケーな雨の昼下がり。

みなさまはいかがお過ごしでしょうか。

今日は、バスローブについてお話ししたいのでございます。

一週間ほど前のことでございます。

思いがけず、素敵な女性からバスローブをプレゼントしていただきまして。

それから一週間、毎夜、バスローブ・ライフを送っておりましたら、なにやらこのところ、ちょっと失いがちではなくって……?と懸念していた、なんといったらよいのか……そうね、うるおいが戻ってきたような気がしまして、いまさらながらに、身にまとうものの重要性を再確認するのでございました。

バスローブ、以前から気になっていた、ちょっと薄手のもの。

Affeto のものでございます。

ご興味あるかたはどうぞ。

というわけで、今日の言葉のプレゼントはこちら。

―ー― 恋愛のない世界とは、色気のない世界ということで、

「こころ」の動きがないということである。by大庭みな子

 『うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ』54ページ。

写真、バスローブ姿を撮ってみたのはいいけれど、やはりひとさまに見せられるようなものではないものですから(涙)、4つ組み合わせてみたら、なにがなんだかわからなくなっちゃった。

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2016年5月14日 (土)

◆お誕生日会

Img_1275_2その日は、朝から忙しくしていて、というか精神的に締め切りに追われている日々が続いている流れで、今日こそはある程度の形にしなければ、という日だったところに、「会いたいなあ」と思っていたお友達から突然の連絡があり、とっても会いたかったから、がんばって仕事をすすめて、夕刻会って、そうしたら、あっという間に約束の時間になっていた。

支度をして電車に乗り、空いている席に座ってようやく、30分後の会について想いをめぐらせた。

お友達が企画してくれた私の誕生日の会。

これは、私が以前より、50歳だから、半世紀だから、何かお祝いの会でも自分で企画しようと思う……と騒いでいて、でも、いろんな要因があって、やっぱりやめよう、なんてなって、そういったところに、生まれたお話。

騒いじゃって申し訳なかったなー、という想いもあるし、なにしろすこし恥ずかしいというか照れが。

それでも、お友達が集まる誕生日会なんていつぶりだろう・・・・・・、と過去を旅してみれば、おそらく、私の記憶に間違いがなければ、小学校4年生以来。

大人になってからは、こういう性質だから、3名以上のお友達が集まって私の誕生日を祝う、なんて会に縁がなかった。
娘の誕生日会は軽井沢のあの家で、何度も開催したけれど。

なにか、とても不思議な感覚だった。
これって、どんなふうに表現したらよいのだろう。
ぜったい無理だと思っていた大きな賞を受賞して、現実味がない、みたいな。
ちょっと違うかな。

でも、ほんと、不思議な感覚。

それで、この不思議な感覚は、会場であるレストランに到着して、お料理をいただき、それから10数人の参加者の方々からのメッセージがいっぱいのアルバムと、卒倒しそうなくらいに好みの薔薇の花束をいただいて、家に帰ってきて、それから……、いまもまだ続いている。

私はいつも不義理ばかりで自己中心的な人生を生きているというのに、みんな、なんて心優しい人たちなのだろう。

それぞれに、めちゃくちゃ多忙ななか、時間と、それから高額のお金を使ってくださって、私はみんなの優しさに値しないのに、こんなに幸せな想いをしていていいのだろうか!
いいはずがない!
こんなに幸せな気分でいると怖い。なにか嫌なことが起こるかも(毎度ネガティブ)。

そんなことがぐるぐるまわるほどに、そう、私はとても幸せでした。

写真はいただいた薔薇の花束。

見たことがない品種の、写真ではこの美しすぎる色と質感がぜんぜん出ていないけれど、もう、なんというか凄みのある美しさ、とでも言いましょうか、ほんとにすごいの。好きなの。枯れてしまうのが、いまから悲しいくらい。

……次、60まで生きられたら、また騒ぐのかな、私。

それにしても、あのレストランでの、みなさんの、あたたかな空気感。
私は目に見えない、あたたかな何かに、それは目には見えないけれど、ときどき強く体感する、確かなあたたかさに支えられて人生を歩んでいる。

そんなふうに感じられたことが、何よりのプレゼントであり、心からのありがとうを言いたいです。

ありがとうございました。

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2016年5月10日 (火)

◇7月7日、七夕の夜「語りと歌のコンサート」

Img_1005 ごきげんよう。

しばらくブログのほうに浮気しておりましたら、あっという間に5月も10日が経過。

ここのところ私はずーっと原稿書き……

という、よい子の状態が続いていて、足腰が萎えているのでございました。

こうなったら、そうよ、か弱いかんじでいくのだわ。意味不明。

みなさまはいかがお過ごしでしょうか。

 本日は、一大イベントのお知らせがあるのでございました。

およそ2か月後の77日、七夕の夜。

南青山のライブハウス、曼荼羅MANDARA で「語りと歌のコンサート」。

テーマは『妖しくきらめく7つの神話』。

こんな内容よ。

ちゃんとお読みになってね。↓

*****

七夕伝説からはじまる、古の人々と神々の物語。

青白い月が輝く夜の秘め事、美少年の恋と嫉妬の嵐、
ワイン誕生の陰の悲恋、疑念が終わらせた恋……。
聴く者を必ず涙させるAkimuse。その天使の歌声と抒情的なピアノ。
作家山口路子による7つの神話の朗読。

七夕の夜の南青山曼荼羅MANDARA
幻想的で妖しい夢のひととき。

*****

読み飛ばしてなあい?

イベントページを作成しましたので、ご覧になってくださいな。

Akimuseアキミューズさんとご一緒するの。
彼女は私と違って、とってもピュアで陽性のエナジーをもった天使ちゃん。
これは、そうね、15年ぶりの再会の記念のライヴ……
神話はもちろん、路子超訳。

もうこうなったらとことん、幻想的に妖しくいくのだわ。お楽しみに

というわけで、本日の言葉のプレゼント。
「真実は誤りの中にもあるって言うけれど、真実は神話の中にもあるのです」

*****
■日時:201677日(木)1830 OPEN 1930 START
■¥4000(1drink
■会場:南青山MANDARA
1070062東京都港区南青山322 MRビルB1
TEL 03-5474-0411
最寄駅は、地下鉄銀座線「外苑前」から5分。出口(1A)より、元ベルコモンズのある、南青山3丁目交差点を左折。ゆるやかな坂道の途中、右側。

■申し込み:こちらまでメールをください。(お名前と参加人数をお願いします)。my.orange@zels.co.jp

■会場は自由席です。1830の開場、先着順となります。受付でお名前をおっしゃってください。早めにいらっしゃって良い席をキープなさってください。お食事メニューもあります。

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2016年5月 8日 (日)

◆GWと失望と中田先生の言葉と

Pよのなかはゴールデンウィーク。それも終わる。

私は締め切りウィーク。これはなかなか終わらない。

人が外に出るときに出るのが好きじゃないから、ほとんど家にこもって自分のペースで過ごせていいんだけど、どうしようもなく、ぐわっと、突然おそわれる、この寂しさってどうにかならないのだろうか。
誰が私をこんなふうにしたんだ、と人のせいにして、寂しさを怒りに変えて逃げたくなる。

この間、お友達とアナイスについて話をしていたときのことを思い出した。
お友達は、アナイスは、男性に対して、基本的に、失望、があったと思う……と、これ、正確じゃないけど、そのようなことを言った。
私はとても意外で、「え、そうかな、失望?」、すこしうろたえるくらいに意外で、それが今日、なんとなく見えたというか、もしかしたら、私もそうなのかもしれない、と思った。
でも、もしそれを認めてしまったら、なにか、自分が目指すものと違う方向に行ってしまいそうだし、楽しみが減ってしまうから、認めなかったのかもしれない。

そんなふうに考えて、過去に思いを馳せる(得意)。

それはそうと、4月のはじめの中田耕治先生の講座で、書き留めた言葉が、ここ最近の私にぴったりなので、ここに書いておこう。
あるテーマが見つかると、自分が見つけたのではなく、テーマのほうが自分を見つけて、よく調べなさい、と言っているような気がする」
先生は、そうおっしゃった。
いつも、なにか宝物のような言葉を、先生はくださる。

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2016年5月 6日 (金)

▽いまを生きる

Ima_2 20何年ぶりかに、「いまを生きる」を観た。

この映画、弟と二人で明大前のアパートに住んでいたときに、映画を観た弟が興奮して「Seize the day! Seize the day!」と叫んでいたことをよく覚えている。

この英語は、「今日という日をつかめ」、ぎゅっと強くつかめ、って、そういう意味で、「いまを生きる」って表現で邦題になっている。

私も、二十代のはじめに観たときは感動して泣いた。

そして、先日、観て、やはり感動したけれど、以前には見なかったもの、感じなかったことがあって、でも、それほどのものではない、と判断してノートにもとらなかったし、ここに書くつもりもなかった。

けれど、ひっかかっていたみたいで、日常のふとした隙間に、ふと現れて、頭を占領するから書いておこうと思う。

物語は、伝統と規律でがちがちの男子校に英語の先生がやってきて、その先生が、その高校にはいないタイプの人。

つまり、個人の感受性に価値を置き、人生は一度、いつ死ぬかわからないのだから、自分のしたいことをすべきだ、と生徒に教える。

影響を受け、それを表現する生徒、影響を受けているけれど、それを表現しない生徒、そして、受けない生徒とが、たぶんいる。

強く影響を受けた生徒が、したいことをし、けれど、目の前の困難の前に自殺するという悲劇があり、その責任を問われて英語の先生は学校を去ることになる。

ラストシーンは、「その後の懲罰」があるだろうに、それでも、机の上に立ち、去ってゆく英語の先生を「支持」していることを伝える、一人、また一人、と机の上に立つ生徒たち。

胸熱くなるシーン。

けれど、私の頭のすみっこに、こびりついてしまったのは、机の上に立つ生徒たちではなく、立たないでいる生徒たちの背中なのだった。

この生徒たち、一人一人に思いを馳せて、考えてしまう。

去ってゆく英語の先生、こういう、いわゆる熱血で、秩序というものからはみ出るような人を嫌う人だっている。

その教えに疑問を感じる人もいる。

先生のことをいいなあ、と思っていても、机の上に立つまでの気持ちがない人だっている。 なにか、この小さな教室に、社会の縮図を見て、だから難しいんだ、いろんなことが、そんなふうに思う。

そして、こういう、机の上に立てるような人々がまとまって行動したときのエネルギーは、おそろしいものがあるなあ、とも思う。マジョリティの権力。

よくわからないけど、ひとつだけ私のなかで確かなことは、机の上に立たない、あるいは立てない人たちを非難することは間違っている、ということ。

私はむしょうに彼らと話がしたい。

机に座ったまま、背を緊張させている生徒たち一人一人と、私は話がしたい。

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2016年5月 5日 (木)

◆50本の薔薇

2016年の5月2日は、私の50歳の誕生日だった。

一年位前から、ちょっと力んでいて、過去の日々に想いを馳せれば、50歳の誕生日を迎えられるだなんて、そんなふうに言えばみんなそうなんだろうけど、やっぱりひとつの奇跡なのだと思って、なにか自分の存在を刻印できるような、なにかをしたいなあ、なんて思っていたけれど、いざその日が近づいてみれば、当日は、とても静かに過ぎた。

静かで、そして愛情を受けていることを感じられて、満たされた。
大好きなレザネフォールのケーキはおいしかったし、柔らかな色彩の花束も嬉しかった。

思いがけなかったのは、50本の薔薇の贈り物だった。

50本の薔薇の花束ってすごく重くて、薔薇以外になにもない50本の薔薇って、すごく存在感があって、私は、その花束の一本一本をひとつずつ、じーっと眺めて、ときを過ごした。

色は深紅。

誕生日の数日前に、お友達と、私の部屋でなんと休憩なしの8時間! 会話をした。

そのお友達は、私がいまの世界(アバウトに言えば「美」)を知る23歳以前に興味があると言い、私はいくつかのエピソードを思い出して、語ることになった。
そうしたら、やはり、そこには、確かにいまの私につながる私がいて、そのことが発見できたことは驚きだった。

そのお友達は、やっぱりスペシャルな存在なのだろう。
たぶん、私の誕生日なんて意識していなかったのに(知らなかったと思う)、結局、誕生日の二日前に、50年を振り返って眺めるような、そんな時間を創ってくれたのだから。

このところ、私の周りで物事がぐるんぐるんと回転しているような気がする。
いままでしてきたことの、いろんなことがつながって回転しているようなかんじがして、少しこわいくらい。

50歳。
若くはない、当たり前。わかってる。
鏡を見れば、そこには年齢相応な顔が映る。
身体は以前からヘロヘロだから、とくに弱ったとか思わないのが、いいのか悪いのか。
精神は、どうなのかな。
知りたいこと、勉強したいことが山盛りで、感動を求めてかけまわっているところはあまり変わらないけれど。

年齢を気にしないで、年齢から自由になって生きる人が、年齢を感じさせない人なのだという。
実年齢、経験年齢、という考え方もある。
実年齢じゃないよ、経験年齢なんだよ。私もそう思う。

でも私は、年齢を意識し続ける。
これ(だけ)は一貫している。最初からプロフィールに生年を記した。
私はこれだけの年数を生きてきて、そしてこれを書いた、という生き方を選んだ。そしてそれは今も同じ。

いま、欲しいのは、「変化」を受け入れられる力。
力、ってへんかな。
私は変化を受け入れたい。
私自身の変化、私と関係のある人たちの変化を、受け入れて、もう少し、優しくときを過ごしたい。

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