2016年5月17日 (火)

◆ヴィスコンティと荻昌弘と私と

Img_1288 恵比寿ガーデンシネマで上映中のヴィスコンティ、『山猫』が4Kっていう、ものすごく美しい画質で観られるからぜひ、とお友達に勧められて、3時間以上という長時間、鑑賞。

結果。
帰宅後、仕事しようと思ったけどできなかった。
その日のエナジーをすべて使い果たしてしまった。抜け殻みたくなっていた。すごい映画を観た時の、現象。

本物だけがもちうる美があった。
本物を知り、本物を愛する人だけに可能な作品がそこにあった。

以前、20年以上前、自宅の小さなテレビでも、その圧倒的な世界観、その雰囲気だけは伝わってきたけれど、今回、映画館で観て、あらためて、ヴィスコンティという映画監督の、なにか、ものすごい執念を見たように思った。

『山猫』については、もう、いろんな人が書いているし、私は、やっぱりちゃんと理解しているとは思えないんだけど、でも、バート・ランカスター演じる老侯爵(老、っていっても、私とあんまり年齢変わらないのでは?)が、その人生のなかで直面する、時代の変化があって、その時代の変化に、どのように対応してゆくのか、というのが、ひとつのテーマになっていると思う。

あと、個人的な「老い」。

私は、だからすごーく、この老侯爵に感情移入して観てしまって、時代の変化に自分はどのように対応してゆくのか、老いとどのようにつきあってゆくのか、そんなことを重ねながら観ていた。

そして、ヴィスコンティって『ベニスに死す』(これ、私の特別な映画、大好き)のときにも強く思ったけど、自分自身を描く人なんだなあ、ということも感じた。老侯爵はヴィスコンティの自画像そのものだと。

『山猫』制作時、ヴィスコンティは50代後半。

それで、帰宅して抜け殻状態なものだから、仕事は諦めて、愛読書の一つ『荻昌弘の映画批評真剣勝負』を開いた。
この本のことは、『うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ』のなかにも書いている。絶賛している。
たしか荻昌弘は『ベニスに死す』についても書いていたはず、と記事を探して読み始めて、ひとりで声をあげた。
こんな文章があったから。

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ヴィスコンティとは、つねに他から原作を借りながら、結局映像では自分しか語らない、そんな人だ、というのである。
「白夜」「山猫」「異邦人」。……あれだけ著名文学の映画化にいそしみながら、結局この巨大なイタリア演出家が映像に描きあげるのは、「原作」ではない、つねにヴィスコンティ自身の自画像なのだ、ということである。
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私が感じていたことは的外れじゃなかった、と知って嬉しかった。好きな作家と似たように感じられていたことが嬉しかった(もしかしたら、自分の深いところにインプットされていたのかな。覚えていないけれど、そういうことはあるだろうから)。

嬉しい、のあとに、「あれ、どこかで似たようなことを自分が書かれていた」ということを思い出した。
そうそう。
『うっかり……』の「解説」で、千葉望さんがこんなふうにお書きになっていた。

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さて、文章を通じて私に見えてきた山口路子という女性は、徹底した自己愛の人である。前作『彼女はなぜ愛され、描かれたのか』は、十八人の名画のモデルとなった女性を美神(ミューズ)ととらえ、画家と彼女たちの関係に分け入った美術エッセイだったが、実はそこでも本当に描かれていたのは、山口路子その人であった。アルマ・マーラーやヴァリ・ノイツェルを書きながらも、自分のことを語った。本書『うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ』は、絵画から文学や音楽に題材を移したが、やはり本当のテーマは彼女自身なのだと思えた。
自分はいったいどんな人間なのだろうという問い。自分をもっと知ってほしいという欲望。両方とも山口さんにおいてはひそやかなものではなく、熱帯地方の花のように強い芳香を放って、読む者にまつわりついてくる。
ある人は同室の香りに引き寄せられるだろうが、人によっては強烈過ぎてむせてしまうかもしれない情熱が、この人の持ち味である。
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いま、書き写していて、千葉さんがお書きになりたかったことがわかるような気がする。
そして千葉さんの鋭さに、いま、あらためて敬意をもつ。

ほら、ヴィスコンティから、こうして自分の話になってしまう。私は「徹底した自己愛」の人。
でも、千葉さんがおっしゃっている「強烈過ぎてむせてしまうかもしれない情熱」、薄れていたら嫌だな。そういう「老い」は嫌だな。

そんなことまで考え、昨夜はなかなか眠れず。たぶんこれ、ヴィスコンティの映画の影響力の大きさを物語っている。

『ルートヴィヒ』はさらに長い4時間越え。体調のよいときに行かないと。

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2016年5月 6日 (金)

▽いまを生きる

Ima_2 20何年ぶりかに、「いまを生きる」を観た。

この映画、弟と二人で明大前のアパートに住んでいたときに、映画を観た弟が興奮して「Seize the day! Seize the day!」と叫んでいたことをよく覚えている。

この英語は、「今日という日をつかめ」、ぎゅっと強くつかめ、って、そういう意味で、「いまを生きる」って表現で邦題になっている。

私も、二十代のはじめに観たときは感動して泣いた。

そして、先日、観て、やはり感動したけれど、以前には見なかったもの、感じなかったことがあって、でも、それほどのものではない、と判断してノートにもとらなかったし、ここに書くつもりもなかった。

けれど、ひっかかっていたみたいで、日常のふとした隙間に、ふと現れて、頭を占領するから書いておこうと思う。

物語は、伝統と規律でがちがちの男子校に英語の先生がやってきて、その先生が、その高校にはいないタイプの人。

つまり、個人の感受性に価値を置き、人生は一度、いつ死ぬかわからないのだから、自分のしたいことをすべきだ、と生徒に教える。

影響を受け、それを表現する生徒、影響を受けているけれど、それを表現しない生徒、そして、受けない生徒とが、たぶんいる。

強く影響を受けた生徒が、したいことをし、けれど、目の前の困難の前に自殺するという悲劇があり、その責任を問われて英語の先生は学校を去ることになる。

ラストシーンは、「その後の懲罰」があるだろうに、それでも、机の上に立ち、去ってゆく英語の先生を「支持」していることを伝える、一人、また一人、と机の上に立つ生徒たち。

胸熱くなるシーン。

けれど、私の頭のすみっこに、こびりついてしまったのは、机の上に立つ生徒たちではなく、立たないでいる生徒たちの背中なのだった。

この生徒たち、一人一人に思いを馳せて、考えてしまう。

去ってゆく英語の先生、こういう、いわゆる熱血で、秩序というものからはみ出るような人を嫌う人だっている。

その教えに疑問を感じる人もいる。

先生のことをいいなあ、と思っていても、机の上に立つまでの気持ちがない人だっている。 なにか、この小さな教室に、社会の縮図を見て、だから難しいんだ、いろんなことが、そんなふうに思う。

そして、こういう、机の上に立てるような人々がまとまって行動したときのエネルギーは、おそろしいものがあるなあ、とも思う。マジョリティの権力。

よくわからないけど、ひとつだけ私のなかで確かなことは、机の上に立たない、あるいは立てない人たちを非難することは間違っている、ということ。

私はむしょうに彼らと話がしたい。

机に座ったまま、背を緊張させている生徒たち一人一人と、私は話がしたい。

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2016年4月23日 (土)

▽女と男のいる舗道

Image1_2 すてきな殿方から、
「この映画のアンナ・カリーナがかなり魅力的」と勧められて、観たゴダールの『女と男のいる舗道』。
ほんと、このアンナ・カリーナ、とってもいい。
『気狂いピエロ』でしか知らなかったけど、ピエロよりこっちのほうがずっと好き。

なんていうか、もちろん若さゆえの美しさもあるのだけれど、内面の美しさを、監督が描こうとしている、そういう、アンナ・カリーナに対する、尊敬愛情丁寧さが伝わってくるから。
なかでも11章の「シャトレ広場 見知らぬ人 ナナは知らぬ間に哲学を……」
がとってもよかった。

カフェで偶然出逢った哲学者と、アンナ・カリーナ演じるナナとの会話。
これ、きっと、台本とかなくて、ぜんぶ、そのときのそれぞれの会話、そのままなんじゃないかな。アドリブ。そんな気がする。
懸命に人生について知ろうとするアンナ・カリーナの表情、それに答える老哲学者の表情、目が離せない。

いっぱいセリフを書き留めた。
そのいくつかを。

――何か言おうとして、言う前によく考えているうちに、いざとなると、もう何も言えなくなってしまうの。

アンナ・カリーナのこの告白は、まさに、いまの私の状況そのものだったから驚いた。
これだけでも、観るべきときに観るべき映画だったんだ、と思う。
そして老哲学者の答え。
――人生を諦めたほうが、うまく話せるんだ。
――人間は揺れる。沈黙と言葉の間を。それが人生の運動そのものだ。

私は、いまは沈黙のときなのかもしれない。
それでもそれを含めて人生の運動というなら、少しだけ気が楽になる。

ゴダールのミューズ、アンナ・カリーナ。
私のミューズ・コレクションに新たに加わったひと。

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2016年4月 4日 (月)

▽アリスのままで

A_2 自殺さえできないんだ。

美しく死ぬことは許されないことなんだろうか。

そんな想いが残った。

『めぐり逢う時間たち』以来、気になって、追いかけている女優ジュリアン・ムーア主演の映画、『アリスのままで』。

言語学の教授という、思いっきり知的で、思いっきり言葉の世界に生きている女性が若年性アルツハイマーによって、みるみるうちに記憶をなくしてゆくという物語。

物語の冒頭シーンがなんたって、ヒロインのアリス、50歳の誕生日の食事の席。
あとひと月も経たないうちに50歳の誕生日を迎える私としては最初から、他人事にはならない。

どんどん症状が進行してゆくなかで、ヒロインのアリスは自分に向かってのビデオレターを作る。
娘の名前が言えなくなったら、このフォルダーを開けと。
そして、そのビデオレターには、未来の症状がもっと進行した自分への「指令」が語られる。つまり、一瓶の薬を水で流し込み、そのまま眠りなさいと。
もう自死とかそういうのがわからなくなっているに違いないから、とにかく、あの部屋に行って、引き出しのなかの薬を取り出して、それで飲んで寝るのよ、っていう指令。
でも症状が進行したアリスがたまたまそのフォルダーを開いて、指令の通り動こうとしたときには、もう遅くって、つまり、症状が進行しすぎていて、その指令の通り、できない。

それが私にはやりきれなかった。

家族に迷惑はかけたくないよね。

だからもし、記憶がなくなってゆく病気になって、娘さえ判断できなくなるようなら、その前に自分で命を終えたい。

そう願って、どうしたらいいのかなんてことをいつも考えているけれど、この映画は、同じように考えている人がいて、それでも、うまくいかないんだ、それを含めて、人生ってやっぱり過酷なんだ、っていうことを私に再確認させた。
この映画の原題は「STILL ALICE」。

まだアリス、いつまでアリス……いつ、どのような時点で人はその人でなくなるのだろう。それとも永遠にその人であり続けるのだろうか。

アリスは、娘の名前が思い出せなくなったときを、「ある時点」と決めた。

STILL ALICEってタイトルは、決断を下すことの難しさを語ってもいる。

何をもって、私は自分をMICHIKOだとしているのか。
何が失われたとき、「STILL MICHIKO」と言えなくなるのか。
そう考えてゆくと、ほんとうに、あらゆる事象が儚くて、たまらなくなる。

アリスが症状があまり重くないときに、同じ病を抱える人たちの前でスピーチした。
このスピーチの場面が物語の一つの山場でもある。
そのなかで、彼女が語った言葉、アルツハイマーという記憶や思い出を奪ってゆく病が進行してゆくなかで、彼女が言った言葉は、やはり重く深く胸に沈んだ。
「瞬間を生きるということ。それが私のできるすべてです」
私の言葉でもある。

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2016年3月30日 (水)

▽追憶と、踊りながら

T聞いてくれる? 

私は学んだの。
いつも幸福でなくても満足することを。

孤独な人生にだって、いつかはきっと慣れる。

でも私はこうして生きている。

もう何もなくても、たとえ行く場所がなくても。

……
忘れていた傷が突然疼くようで怖くなる。
それが孤独。

それでもこう言うでしょ。
今日と違う明日は来る。
私は人生を続けてゆく

夫に先立たれ、最愛の息子を失ったばかりの初老の女性がたんたんと語る、ラストシーン。

彼女を訪ねる息子の同性の恋人、コミュニケーションの困難さの象徴として、ふたりの間に立ちふさがるのが言葉の壁。

「この映画、おすすめですか?」と聞かれたら、「うーん。そうでもない」と答える。けれど、「生きるちから」みたいなものの、ほんものを観たかったら、すすめる。

人はすっごく大切なものを喪っても、それでも、生き続けられるものなんだ。
そんなことと、あとはなぜか、
歴史に名を残すようなことをしていない人のなかに、偉大な人が数多く存在しているに違いない。
そんなことを思った。

私はこの映画で、人間の生命力というものを、そっと、ではなく、強引に見せつけられた気がした。
その強引さは、あまりにも音がないものだから、強引なのだと気づかないくらいで、それで、見せつけられたのち、私はそこに希望を見て、ああ、この映画を見てよかった、としみじみと思った。

このところ、余裕のない毎日を送っている。

いくつかのことが同時に進行していて、私はこういうのが得意ではない。

ひとりの人と、ひとつの物事とじっくりとつきあいたい。

次はこれ。
ああ、これもしておかなくては。
この締め切りはいつまでだっけ。
少し眠らなくては。

目の前に積まれた読むべき本の山。観るべきDVDの山。返信するべきメール。
べき、べき、べきって、誰が決めているかといえば自分自身。
ほんとのほんとに、すべきことなんて、そんなにあるはずがないのに。

こんな毎日では、なにか、とりかえしのつかないことを、おろそかにしているようで、こわくなる。
なんのために生きているのかわからなくなる。
もっときちんと、ひとつひとつの出来事をかみしめながら、考えながら、生きるべきなのだ。
また、べき、って言ってる。

「追憶と、踊りながら」の人々は、苦しみながらも悲しみながらも、でも、丁寧に、生きていた。

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2016年2月23日 (火)

▽「キャロル」

Ca その世界にあまりにも思いきりどっぷりと、浸れたものだから、私がもちうる情感が、その世界のなかでひたひたになって、映画が終わって席を立とうとしても、身体がなかなか動かなかった。

キャロル。久しぶりに、圧倒的に美しく、せつない恋愛映画を観た。

音楽、映像、少ないけれども選び抜かれたセリフ、衣装、そしてストーリー、ぜんぶがぜんぶ好み。
胸が何度熱くなったことだろう。

そうだった。人を好きになるのって、こういうことだった。
それはほんとうに、もう、たまらなく、
「生」を感じるものだった。
絶対恋愛のあの感覚は、こころの底から「生」を肯定したくなる、そういうものだった。

出逢いのシーンに、雷にうたれたようになり、はじめてのふたりの性愛のシーンでは、お互いが愛しくてたまらない欲しくてたまらない、そのようすが、あまりにも見事に表現されていたから、泣けてきた。
性愛シーンと涙という組み合わせ、私にもあまりなじみがないから自分でも驚いた。

誰かをすっごく好きになると、すっごく傷つくことも、もれなくついてくるけれど、私はやはり、この世界から離れたくない。

そんなことを確認して、いろんなことに考えを泳がせて、映画のいくつかのシーンを思い出して、また胸が熱くなって、やはりもう一度映画館でこの作品を観たいと思う。

生活に役立つわけでもない、前向きに生きるお手軽なヒントがあるわけじゃない、ビジネスで使える何かがあるわけじゃない。

でも、ほんとうに私、この映画で強く強く「生」を感じた。
これがきっと芸術の力。
本質の部分で、命を支えるものなのだと思う。

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2016年1月16日 (土)

▽ヴィオレット~ある作家の肖像

Img_2574昨年から私を支えてくれている、ずいぶん年下のお友達と岩波ホールで、「ヴィオレット~ある作家の肖像」を見た。

チラシには私を惹きつける言葉が並ぶ。

「1940年代、パリ。文学界に衝撃を与えた実在の女性作家ヴィオレット・ルデュック。彼女を支えつづけたボーヴォワールとの絆、そしてプロヴァンスの光の中に幸福を見いだすまでの魂の奇跡」
とか、
「書くことが、生きること」
とか。

映画は139分もあって、かなり長く感じた。
長く感じたということは、それほど惹きこまれなかったということで、それでもやはり、作家の伝記だから、じわじわと効いてきている。

「刺激を受けなければ」と、半ば強制的感覚で出かけた映画だった。
三年、四年という慢性的なスランプ状態を、このままほうっておくと、それはスランプではなく常態になってしまう。

ヴィオレットが生きた1907年~1972年って、私のアナイス・ニンとほぼ重なる。アナイスは1903年~1977年だから。
ふたりを比べることは無意味かもしれないけれど、ヴィオレットが文学史上はじめて「自分の生と性を赤裸々に書いた作家」とされていることに、私は思うことがある。

アナイスも、同時期に、未発表の、その時点では超個人的な日記に、自らの生と性を赤裸々に綴っていた。
違いは一つだけ。
それを発表したか、しなかったか、ということ。

アナイスが発表できなかった大きな理由としては、夫をはじめとする家族への気遣いがある。
ヴィオレットに、アナイスがもっていたためらいの理由はなかった。

よほどの神経の持ち主、あるいはすべてを捨てる覚悟(自己愛とか冷徹さとかも含む)がなければ、このためらいは作家にとって命とりになる。
作家という、自らをさらけ出してその反応を世に問い、お金をもらうというけっして上品ではない仕事をしていくうえで、ヴィオレットは好条件を備えていたと言っていい。
つまり、私生児として生まれ、母親に愛されていないという想いをかかえて育った彼女の人生に、ためらいとなる要素はなかった。
彼女は自分は恵まれていないと思っていたけれど、私から見れば、作家としては最高に恵まれた環境に生まれ育ったのだ。

それにしても、ヴィオレットの才能をほめたたえた人たちがすごすぎる。
ボーヴォワールに絶賛されたということはそんなにうらやましくないけど、カミュ、サルトル、ジュネ、コクトーに絶賛されたことは、よだれがでそう。

ヴィオレットの創作に命を与えたのがプロヴァンスだったということも興味深かった。
都会ではだめで、そこだったからこそ書けた。
そういう命の場所というのが存在するということ。自分の軽井沢での十年と重ねて涙が出るくらいに共鳴した。

ボーヴォワールがヴィオレットが成功したことに、「文学の美しい自己救済を見る」と言ったことも胸にしみたし、あとは、シンプルなセリフだけど、

「書くのよ 涙も叫びも 書くしかない」

「私は特別ではない。死ぬのは怖く生きるのもつらい。それでも生きていく。すべてを背負ったまま」

このあたりも好きだ。

観終わったあと、神保町のミロンガというタンゴ喫茶で、私はお友達といろんなことを話した。ミロンガのブレンド珈琲はここ数年の間(それ以前のことは覚えていないだけ)に飲んだ珈琲で一番美味しかった。あの珈琲を飲むためだけにも、ミロンガに行きたいくらい。

お友達は、彼は意識していなかったと思うけど、私をちくちくと刺激し続けた。
彼は私を刺激する決定的な要素をもっている。それは、私をひとりの芸術家として見ているということだ。

ヴィオレットとミロンガの珈琲とお友達との会話。帰りの電車のなかで、持ち歩いていた原稿を取り出して、その裏に筆圧強く書いた言葉は、「私は敗北感のなかで生きるのか!!」。

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2015年11月27日 (金)

▽アクトレス

Img_2377 ジュリエット・ビノシュが好きだから、忙しさの間を縫うようにして、珍しくひとりではなくお友達と観に行ったヒューマントラストシネマ有楽町。

なんか、久しぶりに、「感動しなくっちゃ」という強迫観念なしに楽しめて、それで、ほんとうに心動かされた。
「美しく生きること」。
内面はもちろん外面もしっかりと、「美しく生きること」をテーマにせざるを得ない女優という職業のヒロインが抱える加齢という問題。
これが、やはり40代の最後を生きる私としてはとても近い問題だから、ヒロインのひとつひとつの言動が身にちくちくしみる。
よいセリフがたくさんあって、それでパンフレットを買ったのだけど、やはりシナリオ収録ナシ。
これが残念。
女優たちのプロフィールなんてネットでいくらでもわかるのだから、シナリオが欲しい。
DVDで借りてしっかりとメモしたい。
私のあたまのなかに残ったセリフがふたつ。
もちろん正確ではない、だいたいの意味なんだけど、こんなかんじ。
「若さに執着しない人は年齢そのものから自由でいられる」
「どんな低級な作品(娯楽作品)のなかにだって真実はあるし、そういう作品で真実を表現することはできる。かしこまった作品がかならずしも真実を表現するわけではない」
ああ。かなり自分的な意味で書いてしまっています。
けれど、すごく共鳴した部分。
それで。
この映画、原題は「シリス・マリア」っていう。
これは、スイスの南東部、高級山岳リゾート地で知られるサン・モリッツ(シャネルもここにいたことがある)からバスで20分くらいの小さな集落の名前。
ここが重要な舞台になってる。
それでそれで。
この近くには独特の気象現象があって、それが「マローヤのヘビ」って呼ばれている。
初秋の早朝に、運が良ければこの現象を見ることができる。
山の合間を雲、というかすごく濃い霧が這うようにうねうねと流れる、ものすごい壮観な光景。
マローヤ峠を這うヘビ……のような雲、濃い霧。
私は「マローヤのヘビ」を、この目で見てみたい、と切に願った。
気象現象をこんなに強く見たい、と思うのはあまりないことだ。
もしかしたら軽井沢の霧を深く愛しすぎていて、その流れかもしれないな。
それでそれでそれで。
映画のラストのほうでこの「マローヤのヘビ」が見られるのだけど、そのときに流れる音楽が「パッヘルベルのカノン」。
この組み合わせ以外あり得ない、というほどにみごとで、私は身体の真ん中で落涙した。
感動的なシーンだった。
映画館で観てほんとうによかった。
パッヘルベルのカノンをそれから毎日聴いている。
かなしい気持ちを、すこし晴れやかにしてくれるときもあるし、慰めてくれるときもある。
だから熊本に行く飛行機で、音楽のチャンネルをクラシックに合わせたら、うそみたいにパッヘルベルのカノンが流れてきて、ほんとうに驚いた。
来年の初秋に私はスイス、シリス・マリアに行って「マローヤのヘビ」を見たい。
*ユーチューブへのリンクがうまくできないので、それぞれのカノンをお聴きください。
私はベルリン・フィルハーモニーのが好き。

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2015年8月10日 (月)

▽おやすみなさいを言いたくて

164653_01こころに残りそうな映画を観た。

これは映画館で観たかった。

夫と二人の娘のいる戦場カメラマンの女性がヒロインで、この女性を私が好きな女優ジュリエット・ビノシュが演じている。

ヒロインは自らの使命と家族との間に立ち、苦しむ。彼女だけではない、家族ももちろん。

水彩画のような映像、そして、戦場でのシーンでさえ静寂があるような空気感。

ヒロインの二人の娘のうち上の子が日本でいえばたぶん高校生くらいの設定で、その娘が母親の仕事をどのように見ているのか、受け入れるのか受け入れないのか、母親と娘の関係、おそらくこのあたりがこの作品のテーマの一つで、私自身、そこの部分にもっとも興味をもって見ていた。

ラストシーンはもうなんともいえない感情が胸を、身体じゅうを絞り上げて、そののち、ヒロインと同じように膝の力が抜けるようになる。

どうにもならない想いがすべてを覆いつくす。

そのラストシーンからちょっとだけ前にも、私のなかに残るだろう名シーンがあった。

車中で母親と長女が話をする場面。

とは言っても、長女は母親を避けている。そんな長女に大切な話だからしておきたいと母親が、自分が戦場カメラマンをやめられない理由を話す。

いつかあなたが大人になって自分と向き合ったとき、抑えきれない何かが自分の中にあるのが分かる。

私は止めようのない何かを始めてしまったの。

終わらせ方を探さないと」

そのあといくつかやりとりがあって、長女が母親にむけて一眼レフをかまえて、空シャッターを切り続ける。

ここはふるえが走った。

私はこの映画は、ほんとうにすごい映画だと思う。

そしてこれは職業が戦場カメラマンに限定されたテーマではないとも思う。

「抑えきれない何かが自分の中にある」とわかってしまった人たちが「家庭」というものをもったときの共通のテーマ。

両立なんてできない。できると言っている人はうらやましいほどに鈍感か、嘘つきなだけ。あるいは両立の自己ハードルが激しく低いか。

それでも人は……、いいえ私は、強欲だからどちらも欲しいと願い、結果、両方の間で引き裂かれながら生きる。確実にどこかにしわ寄せがいっていて、確実にどこかで傷ついてる人がいて、それでもおまえはそれをするのか、という問題がそこにある。

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2015年5月19日 (火)

◇永遠の語らい

51t9d0j35glカトリーヌ・ドヌーヴが出ているので観た『永遠(とわ)の語らい』。原題はポルトガル語でUm Film Falado 語られる映画、という意味。

ほんとその通りで全編通して、会話ばっかり。けれどそれがとてもよくて、私はすべてをノートに書き留めたかった。

ポルトガルの1908年生まれの映画監督マノエル・ド・オリヴェイラの2003年の作品。当時監督は95歳。

ポルトガルで歴史を教える若くて美しい女性が娘を連れてボンベイの夫に会いにゆくのだが、せっかくだから地中海の歴史ある地をめぐりたいと船旅を選択。豪華な船には有名人たちも乗船し、そこでヨーロッパの文明を象徴するような会話がテンポよく展開される。

映像は美しく、セリフもよくて、しずかに品よく物語りは進む。全員が、それぞれに個性的で魅力にあふれ、よい印象をもてる人たち。

ゆったり観ていて、途中気持ちよくなりすぎて、ついうとうと……そんな状態で観ていたからラストシーンには強い衝撃を受けた。

こういう終わり方をする映画は知らないはずはないし、私も自分が創る物語で似たような結末にしたこともある。

だからそういう意味での驚きではなく、これはなんだろう、映画を観終わったあとから、じわじわと私にいろんなことを語りかけてくる。

共鳴という形で。

監督は9.11がこの映画に深く関係していると言う。

どんな文明も、どんな知性も、どんな美しい人も、一瞬で滅ぶ。人間同士の権力への欲望が招く争いのために。

どちらか一方が悪いわけではないところが難しい。

昔から人間はそういうことを繰り返してきた。ギリシア、アテネの栄光の遺跡が、ラストシーンを観たあとで、頭を占領する。そして悲しみに覆われてしまう。

こういう映画を観たあと私はいつもこうなる。

こういう映画というのは、私がもっている感覚と似たものがある映画のこと、真実から目をそらすことを許さずに真実を私の目の前につきつける映画のこと、私のなかを流れる虚無と希望を混ぜて強く揺り動かす映画のこと。

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