■■混乱が個人的な世界を覆っている■■2010.4.10

舞台をすべて演出し、コントロールしているのは、たしかに私かもしれない。だが、その私もまた、この舞台の上で踊っているのだ。

そしてそのために、私は信念と夢を捧げている。

この芝居は私の信念があればこそ、成り立っている

全世界を覆うこのペシミズム、この沈潜に関わることを、私は断固拒否する。目には目隠しを、耳には耳栓をする。殺されるのなら、踊りながら殺される

アナイス・ニンにすがる朝。

混乱が我が世界を覆っている。

混乱混乱混乱。自分が演じているあらゆる役柄の、それぞれの世界から、ささいな、けれどとどめにもなり得る矢が飛んでくる。

矢を飛ばしている本人は、まったくそのつもりがなく、ときにそれは愛情からですら、あり得る。そこがなんともかなしい。


そして、矢を受けながら、自分もあらゆるところに、矢を飛ばしているに違いない、と確信し、消えてなくなりたくなる。


こういう内省的な悲観的な自己陶酔的なのは今の時代、はやらない。


はやらないのだからすぐさまそんなのをやめて、時代の流れとともに、穏やかに心地よく、自嘲気味にほほ笑みながら、流されてゆけたらいいのに。


こういう気分のときは、さびしさとは無縁だ。

ひたすら、生まれ出てきたままの状態、死んでゆくときの状態にたゆたい、思考を停止していたい。

わりとよいかんじなのだろう。こういう状態のときは、原稿がすすむのだから。

■中山可穂■「サイゴン・タンゴ・カフェ」■2008.3.12

513tssba2l_2「過剰な愛はいつだってたやすく過剰な憎悪にすりかわるものだから」

一般受けはしないけれど一部の熱狂的ファンを持つ作家が、これまでとは違う形の小説を書いて、それが世間的な評価を受け、一方で熱狂的なファンから激しく抗議されたときのことについて語った言葉。

一方通行の愛の場合は特にそうだ。これは恋愛に限らない。血縁関係にあるもの、友人知人……。

過剰はよくない。

自分が過剰にそれを抱くことを常に警戒しているせいか、私は少し足りないくらいの女になりたいと思うことがある。

愛情のあれこれ、いろんなものが足りない、そういうひと。

大好きな中山可穂。待望の新作は、タンゴのリズムのなか紡がれた五編からなる小説集。

表題ともなっている五編目の作品が、とてもよかった。心が熱くなった。


そして五編目の作品を読んで、それまでの四編が違った色彩を帯びてくるという仕掛け(これは私が勝手にそう受け取ったのかもしれない)に、しみじみと感じ入った。

昨日は軽井沢も日中は十度を越え、へんな春陽気。冬から春への移行期、私が一年のうちでもっとも嫌いな季節。

サガン■「愛という名の孤独」 2007.9.13

_1_不幸からは人間は何も学びません、不幸は人に大打撃を与えるだけです。人を瀬戸際に立たせるだけです。


私自身が不幸な時、いつもそのことを恥に思っていました。

不幸であることは、品位を落とした状態なのです。


……試練が人を養うという考えは、まったくの嘘。

幸せな時のほうが学ぶことがずっと多いのです


いかにもサガン的な意見に、今回はラインを濃く引いた。


不幸であることは品位を落とした状態。

これ、たしかに思い当たるところが多い。

けれど、自分は幸福だとしている人たちが品があるかといえば、周囲を見渡して、そうでもなく、もともと品というものは、備わっている人とそうでない人がいる、というのが今の私の実感。


そしてこのところは「品」と「情」の関係に注目している。

自分の周囲の人しかリサーチできないけれど、勝手に判断すれば、「品のある人は情があり、情のある人は品がある」。


そしてさらに、「品」と「情」を備えている人には「生きるセンス」というものがある。


お金を持っているか持っていないかは重要ではない。


生きるセンスとは、やはり「自分なり」の幸福を追い求めることにつながる。

だから不幸の中に価値を見出したりしないのだ。

とサガンにつなげたいところ。

■中山可穂■「熱帯感傷旅行」 2006.11.6

619s72d5rkl「なぜわたしはこんなところで、ひとりっきりで、こんなにも美しいものを見なければならないのか?」

無音の悲鳴を聞いたように思った。

みごとな一文だと思った。

失恋の痛み苦しみは、身体が弱ったときや、つらいこと、醜いことにぶちあたったときにも、痛感するけれど、やはりもっともこたえるのは、美しいものにふれたときだと思う。すくなくとも私はそうだ。

大好きな中山可穂の作品には、共感を超えた感動を多々味わっているけれど、やはり、自分は彼女よりそのエナジーが少ないだろうけれど、似た何か……やけどするくらいに熱い何か……を感じるから、ゆえに、大好きなのだろう。

この紀行エッセイは、失恋した中山可穂が、そのひとを忘れるために一人旅に出る。

けれど……。旅のさきざきで、甦る記憶。

「わたしのたったひとつの望みは、記憶喪失になることだった。あのひとにつながるすべての記憶を忘れたい。忘れなければ生きていけない」

日常に忙殺されて希薄になっている情熱にふれることができて、やはり、大好き、中山可穂、としみじみ思う夜。

■中山可穂■「ケッヘル」 2006.12.13

41oil7vd51l__aa160_「真に人間らしい人生とは、中心に愛のある人生のことだ。

誰かをひたむきに愛し、愛される、薔薇色の不安に満ちあふれた人生のことだ」

今年の六月に刊行された中山可穂の最新刊を、ようやく読んだ。

大好きな、たぶん、現在活躍中の作家のなかで一番好きな作家だから、読みたくてたまらなかったけれど、ずっと読めなかった。

自分自身の状況がそれに適応していたなかったからだ。

中山可穂の作品は、読むのに「覚悟」がいる。

こんな作家も、私にとっては、今生きている作家の中では、一人だけだ。

以前に坂口安吾のときにも書いたけれど、もう無条件に好きなので、批評などできない。彼女が書いた一言一句がいとおしい。

何より、ほんとうに美しい。

『ケッヘル』はこれまでの彼女の作品とは趣が違っていて、ミステリー仕立てになっていて、今までの、人の感情というものをぎゅっと凝縮したような作品ではない。

いろんなドラマがあって、もしかしたら、他の作家の作品に近いかもしれない

けれど、やはり、作者は中山可穂なので、そこかしこに、どうしても彼女の情熱が溢れてしまっていて、それがたまらない。

中山可穂の感受性というものに、あらためて惚れ直した本だった。

プラハの石畳は、謎めいた美しい女の背中に似ている」だなんて、風景を描いてもそれが風景にとどまらずに官能的であったクリムトや、木を描いてもそれが木ではなく、死への畏れであったシーレのようだ。

読んでからもう五日も経つのに、心身から離れない。

もうここまでくると、このような作家と同時代に生き、リアルタイムでその作品を読むことのできる幸せを感じてしまう。

■安吾■「坂口安吾 百歳の異端児」 2006.11.10

51vtev2sbrl君は小説よりエッセーのほうがいいね。

何かにつけてこれを言われ、ああそうだとも、大体おれはジャンルの区別なんか問題にしていないんだと居直りながら、内心、安吾は傷ついていたと思う。

この人、小説家以外にわが身を分類したことなど一度たりとなかったろうから」

このような書き方は、惚れていたら、書けない。

私は、坂口安吾とピカソに対する熱烈なラブレター的な本なら書けるかもしれないが、彼らを分析することは、できない。

惚れた男であれば、そのすべてが愛しく見え、愛しく聞こえ、愛しく思えてしまう性質なので、とてもじゃないけど、できない。

この本は、一時期、坂口安吾に強烈な影響を受けた著者が、月日を経て、冷静に安吾文学、安吾の目指したものは何だったのか、について考察 したものだ。

興味深く読み……というのは、私が手放しで大好きな坂口安吾について、批判的な要素がふんだんに入っている本を読んだのは初めてだったから……、つくづく感じたのは、自分とこの著者のような人との決定的な違いだった。

著者は、たぶん、「作品」を評価の対象にする。それを作った人がどんな人であったかということは重要ではない。

文学に限らず、音楽にしても絵画にしても、これはおそらく「芸術」にふれるときの、正しいふれ方だ、と思う。

けれど、私はどうしても、もちろんとっかかりは「作品」だけれど、その「人」に興味がいってしまう。

それを作った「人」に。その人の思想、生き方というものに

そして、人が欠点というところも含めて激しく共鳴してしまうと、たいへんなことになる。耽溺してしまうのだ。

私は坂口安吾が、ペンを走らせ、原稿用紙の上にとどめた言葉の一言一句が、撫でたくなるほどに、好きだ。

早朝、車のフロントガラスや落葉が凍る季節になった軽井沢で、坂口安吾に対する愛を再確認。

■大庭みな子■「女の男性論」 2006.10.3

4122009588「欲望にまつわる哀しさや歓びを知らない人間は魅力がない。

美食をしたこともなければ、飢えたこともない人間は殺風景なテーブルに肘をついて殺風景な話しかしないものである

性的なものの中で多くの人格が培われる。

尊敬、愛情、闘争、克服といったものを自然な形で修得する。性的なものに熱中できない人間はあらゆる情念に不感症である場合が多い。」

27年前に刊行された本なのに、新鮮どころか、時代の先を行っている、と思わせるエッセイ集。大切な本の一つ。

これを読みたくなったのは、自分のやり方に、かくん、と自信がなくなって、迷ってしまいそうになったから。

冒頭に引用したのは、「幸福な夫婦」というエッセイの中の一部。

今回は性的なもの……云々についてよりも、「欲望」を扱った一文に、うたれた。

欲望にまつわる哀しさや歓びを知らない人間は魅力がない。

欲望欲望欲望

親しい友から、さいきん言われた言葉。

けっきょくのところ、あなたは人間の欲望というものに関心が集中しているのね。それでそれを他人の言動ではなく、自分自身を通して知ろうとしているのね。

そう。でも、ときおり、ばたっと倒れそうになる。ぜんぜんそんなのと違うところに身を置きたくなる。けれど、いつもいつも舞い戻ってくる。やっぱり生きる場所はここしかない、といったかんじで。

■大庭みな子■「続 女の男性論」 2006.10.20

110422_115501「疑いもなしに生き、伸びて行こうとするもののさまを見つめるとき、後ずさりし、言葉を交さずにその場を立ち去りたいと思う。

 

 自分に疑いを持っている者は、疑いを持たない者とは対等に話すことなどできないのだ」

「いのちの叫び」というタイトルのエッセイの冒頭。

大庭みな子には、たいてい、激しく共感し、好きだなあ、と思うのだけれど、そして、この部分にも、はっと胸をつかれるほどに、共鳴するのだけれど、なぜだか今日は、「自分に疑いを持たない者」に対して、憧憬に似た感情を抱く。

これは、ここのところ何年か、自分のことを疑いすぎてやってきた反動かもしれない。

もちろん、基本の気質は変わらないので、「疑いを持たない者」に変身することはできないけれど、何事も過多はよくないのだから、ほどほどにしておかないと身が持たない。

だから、すこしは「疑いを持たない者」と接して、なるほど、このようなモノの考え方をすればよいのか、と勉強することも、本気で、必要かもしれないと思う。

とはいえ、私は根がひねくれているから、こんなことを書きながらも、実は、「でも、私は絶対的に『疑いを持つ者』を愛す」と確信している。

■サガン■「厚化粧の女」 2006.9.12

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「それならその人は相手を本当に愛していないんですよ」

 

「愛し過ぎているとも言えるんじゃないでしょうか?……

 

「同じ事です」

愛について登場人物の二人が交す会話。

相手のことを本当に好きなら、相手に夢中になっているならその人の望むことは、なんでもしたいと思うはず、という女に対して男は、それは愛ではない、と言う。

愛しすぎることは、本当に愛していることとはいえない。

というこの理屈に反応したのには二つの理由がある。

一つはとても単純で、教訓的に共感したから。

たしかにね。あなたのこと、ほら、こんなにこんなに愛しているのよ、と迫られて、おなかがいっぱいのところに、一方的に愛を注がれて、幸せいっぱいになる人は、稀だろう。愛はやはりときどき、放任、無執着が必要だ。

もう一つは「本当に愛している」というその言葉に違和を覚えたから。

いったい、「本当に愛する」とは何なのか。

本当の恋、本当の愛。自分自身が、「これは本当よ、私にとっては真実の愛」と思っていても、他人は「そんなの真実の愛じゃないよ」と思う、そして時々それを口にする。

恋とか愛とかに本当も真実も嘘もないのではないか

一瞬一瞬の胸の温度だけが、大切な事実であって、それが持続するか否か、あるいは、命云々、といったことで、「判断」するのは、下品な行為ではないか。

もちろん、私はいろんなところで、「これが最後」、あるいは「このまま死んでもいい」と思えるくらいの恋愛でなければ! と書いてきた、言ってきた。

そして、この考えは今でも変わらない。

けれど、このような恋愛は、一生に一度、体験できれば幸福(そのさなかにあるときは、とてもじゃないけど幸福という言葉は頭に浮かばないけれど)なことであって、だから、それ以外のものを否定していたら、人生は禁欲的で退屈にならないだろうか、と近頃は思う。

だいたい、「ちょっと心ときめく人」に出逢うことさえ、とても希少なのだから、その数少ない貴重な出逢いを、やはり否定したくはない。

本当か本当じゃないか、なんて誰にもわからない。絵画と同じで、観る角度を変えれば、まったく違った印象になる。

■サガン■「水彩画のような血」 2006.8.30

51xbzhu9tl「ワンダとも何と多くの役柄を演じてきたことか。分別のある監督と勝手気儘なスター、物静かな夫と不倫の妻、浮気する愛人と家庭的なスター!」

映画監督である主人公は、妻ワンダと、美青年ロマーノを愛している。

有名女優である妻ワンダとの結婚生活(通常私たちが想像するようなものではない)について考えを泳がせたときの彼の心情。

結婚生活において、多くの役柄を演じているのはこの主人公だけではない。

自らの人生」について意識的に生きている人であれば、たいていは、それが多くはないとしても、少なくとも、いくつかの役柄を演じていると思う。

私自身は、最近とくに強く感じていることだが、その役柄が多ければ多いほど、生きている実感を得ることができるようだ。

ところで、この主人公が自らに問う、次の言葉も印象的だった。

 

「自分自身を少しも愛さずに、二人の人間を同時に愛することなんてできるだろうか。」

主人公は自らについて、「ぼくの血管の中には血など流れていない、流れているとしても薄くなった血だ、水で薄めたような血、水彩画のような血だ」と認識しているような人間。

それでも、二人をこれほどまでに愛せるということは……、というあたりがポイントになってくるのだけれど、やはり、そう、自分を愛せなければ、相手が一人でも、かなり無理があるし、二人ともなれば、絶対不可能だと、私も思う。

とすれば、自己愛の強い人ほど、他者を愛せる、となる?

とは、私には言えない。

けれど、愛とか情とか、そういうのをもともといっぱい持っている人と、そうでもない人と、けっこう少ない人、というのはあると思う。

 

 

 

だから愛とか情とかそういうものをたくさんもっている人は、それを自分にも注ぐし、他者(惚れた人)にも注ぐのだと。そうせずには、自家中毒を起こしてしまうから、そうしないではいられないのだと。

そのように思うことは、ある。

■サガン■「愛と同じくらい孤独」 2006.8.11

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わたしの場合は幸せが好きですから、かなえられない欲望は持ちません」

クライシスモードのときに、手にするバイブル本のひとつ。

結婚や恋愛、人生についての名言満載なので、読むたびに心に響いた箇所にラインを引くから、数種類の色のラインでごちゃごちゃ。

今回は、ラインがまだ引かれていない箇所。

かなえられない欲望は持たない、って、サガンの場合は、他の人たちとくらべて、「かなえられない欲望」のアンダーラインが高いのだろうけれど。

この一言に、目が釘付けになってしまった。

次に続く言葉も、簡単なようで、私にとっては意味深いものだ。

「自由というのは、楽しんだり、感動したりすることに素直に身を委ねることだと思います」

自由であるためには、自由であるがために、踏みにじったものたちに対して無感覚でいる努力を必要とするのだろうか。

それとも、感じない気質体質を基本的に必要とするのだろうか。

……おそらく。

まったくの自由なんて、ありえないし、たぶん、私は、求めていないのだろう。

■中田耕治■「エロス言論」 2006.7.24

_er_人は自分を他人から、一般の人たちから区別する力をもたなければ!」

ロレンスの「恋する女たち」の登場人物のセリフ。昨夜眠る前に突然このセリフが頭に浮かんで、どこで拾ったのだったかと朝一番で調べたら、この本だった。

ヘンリー・ミラー、アナイス・ニン、ロレンスについて語られている、私にとっては宝箱のような本。以前はアナイス・ニンがどのように語られているのか興味があって読んだが、今回はロレンスの章を熟読。

「ロレンスの生涯を決定した出会いは、フリーダとの恋だったことは、あまりにも有名である」。ロレンスの友人、オルダス・ハックリーも言っている。「ロレンスの唯一の深い永続的な人間関係は妻とだけであった」と。

ロレンス自身も言う。「ぼくの愛する女は、未知の世界とぼくを直接の交渉に置くような気がする。その未知の世界では、愛する女がないと、ぼくは道を迷ってしまう」。

26歳でフリーダに会い、44歳で亡くなっているので18年か……。すぐ計算をして、この年月を「ものすごく長い、ありえない」と見るか、「ぎりぎりいけそうな年数だ」と見るか。

関係性は必ず変化するものだから、18年の間に、ロレンスとフリーダの関係がどのように変化したのかが知りたい。情熱恋愛期間は10年以内だったかどうか、とても知りたい。

■安吾■「欲望について」 2006.6.30

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「美しく多情」で「汚れを知らぬ少女のように可憐な娼婦マノン」の世界にひたって、すこしでもそのエッセンスをいただこうとの魂胆で読んだアベ・プレヴォーの「マノン・レスコー」。

あまりにも自分とは違うその姿に読後、絶望したけれど、よく考えてみれば、そもそもマノンは読書なんかしないのだった。汚れを知らぬ天性の娼婦。夢のなかで永遠に憧れることにしましょう。

この本を再読しようと思ったのは、久々に坂口安吾の「欲望について――ブレボーとラクロー」というエッセイを読んだからで、彼はとってもマノンが好きなのだった。

彼女には家庭とか貞操という観念がない。それを守ることが美徳であり、それを破ることが罪悪だという観念がないのである。マノンの欲するのは豪奢な陽気な日ごと日ごとで、陰鬱な生活に堪えられないだけなのである

マノンにとって「媚態は徳性」で「勤労」ですらあった。そして、そこから「当然の所得」を得る、これ、マノンにとっては至極当たり前のこと。

坂口安吾は、「結婚もしないうちから、家庭だの女房の暗さに絶望し、娼婦(マノンのような)魅力を考え、なぜそれが悪徳なのか疑わねばならないようなたちだった」のだそうだ。

多くの人がほとんど疑うことなく従っている習慣や道徳に対する強烈や違和感。それをもち続けた安吾が、マノン大好き、というのは、とっても納得できる。そして晩年に彼が結婚した相手、三千代さんもどこかマノンのように、私には思える。

■大庭みな子■「続 女の男性論」 2007.12.10

Zoku「私は金銭には欲望のあるほうではないが、いやなことをしないために、自由を得るためになら、他人の価値基準とは関係のない暮らしをするためになら、切実にお金が欲しいと思う」

自分の立ち位置を確認したくて、足元が、どこに立っても砂浜みたいなかんじがして、こころで叫びながら、書棚を見渡して選んだ一冊。

読み進めるうちに、落ち着いてきた。

冒頭の一文は「いのちの夢」というエッセイ。

人はまったく自由だと、自由を感じることができないから、ある程度不自由なのがいい、という定説に反対はしないけれど、自分の価値基準の中で生きられない時間が、ある一定の量を超えると、私はだめだ。

そして、世の中にはお金で解決することを許さない場が、かなりあるから。

疲弊したなあ、と思う夜などは、ただただ、似た価値基準にふれることのできる本たちにすくいを求める。

■中田耕治■「あなたにとってのゆりかごは」 2010.11.17

_9_
敬愛する中田耕治先生の「文学講座」、月に一度の数時間は、いまの私にとってこのうえなく重要な時間となっている。

先生のお話はひとことも聞きもらしたくないと思うからメモもとれない。
テキストはあるけれど、先生は原稿なしでお話をする。
あらかじめ紙に用意された言葉と、その時間その場所で生まれた言葉との違いを、いつも思い知らされる。私のトークなどあまりに薄っぺらい。

今月は「吉行淳之介」だった。メモもとれない、と言ったばかりだけれど、あまりにも強烈に突き刺さってきて、ペンを走らせてしまった。吉行淳之介について先生がおっしゃった言葉。

一種の極限状態を生きなければならなかった文学者

もうひとつ。

文学的生命をかけてのノン

強烈なのに、刺激的なのに、自分の怠慢さを指摘されているというのに、不思議と私はゆりかごを思った。

泣きそうになってしまった。

土曜の午後の吉祥寺。あまやかでなつかしい体験だった。

あなたにとって、ゆりかごのイメージはどんなですか。たずねてまわりたい気分。

作家中田耕治のサイトはこちら。

■中田耕治■「誘惑」 2010.10.15

Yuどんな男でも、その胸のなかには、自分との関係で、すべての女たちと違った一人の女のための場所をとってあるものだ

性愛を描いて、なけるほどに生をうたえる作家はとても少ないと私は思う。「誘惑」を読んで、私は涙を流さずに泣いた。

そこに人間の美しき多様性があり、かなしさ、いとしさがしずかに、淡々と描かれていて、淡々としているのに、とても熱く叫んでいるように、感じられたから。

そして私は、私も、自分のうちにわきおこり、育ちつつある奇跡の物語を書きたいとほとんど祈るように思った。ずいぶん時間がかかるかもしれないけれど、いつかきっと、書く。

いくつもあるなかで、とくに残った一文をもうひとつ。

何かを見つめるということは、このうえなく孤独な行為のような気がした

最近、私は何を見つめただろう。

息をつめて、すべてを瞳のうちに吸収してしまいたいと願うほどに見つめたものは何だろう。

秋の朝陽が、まだ色の変わらない木々の葉をつきぬけるように洩れて、少しだけ開いた窓からは澄んだ空気がすうっと入り込んで、部屋には「THE HOURS」のサントラが流れて、一日が始まろうとしている。

■中田耕治■「ルイ・ジュヴェとその時代」 2010.8.4

3534_22000枚を越す大著だから、たとえば『ココ・シャネルという生き方』のざっと10冊分。2週間かけて一冊の本を読み続けたのは初めてだ。

いまは自分の仕事もけっこう忙しいから昼間読むことを厳禁、夜だけにしたから日にちがかかったのだが、私がこういう読み方をすることはあまりないから家族の関心を引いたようだ。

もちろん分厚い本を読むことだってあるけれど、それは資料のためだったりするから、欲しいところだけを拾って読む。だからどんなにかかっても数日の命。

まだ半分? お、ようやく終わりそうだな。

そんな声をかけられた。

そして昨夜終わってしまった。

一九五一年八月十六日午後八時十五分、ジュヴェは死んだ。享年六十三歳

ここで私はこみあげてきてしまった。ルイ・ジュヴェという人の生きる姿勢、芝居にかける情熱、女性をふくめて周囲の人たちへそそぐまなざし。

それとじっくりと寄り添ってきたから、読みはじめたころはぜんぜん知らない人だったのに、いつの間にか、こんなに身近になって、60年も遅れて、ジュヴェの死を悼んだ。

「ジュヴェの墓はモンマルトル墓地、薄幸の『椿姫』アルフォンシーヌ・プレッシイの、今は荒れ果てて見るかげもない墓のすぐ裏側にある。ジュヴェは夫人のエルズ、ふたりの間に生まれたジャン・ポール夫妻とともに眠っている」

いつか行って、ジュヴェが好きそうな花を選んで供えたいと思った。

なんて、ちょっと真面目に感動してもいるのだが、読んでいる途中どうしてもジュヴェが観たくなって『女だけの都』を購入してしまった。そしてジュヴェの色気にふらふらに……。

Images唐突だけど、ジェラール・フィリップとはぜんぜん違った色気がある。ふたりが私の前に立ったらどっちを選べばいいの。と妄想が。

もっとジュヴェを観たくて続けて『北ホテル』購入。これは今の仕事がひと段落したら観るつもり。それまで我慢。

それにしても中田耕治の、ルイ・ジュヴェへの想いには胸を強く打たれた。そしてあらゆるところで見られる、するどい視線に何度も立ち止まった。ページが何箇所も折られ、たくさんラインが引かれている。

たとえば、ジュヴェの恋人であった女優マドレーヌの恋に対しての視線。

相手こそ変わったが、その恋は本質には変わってはいない。

 

いつも、演劇、映画でめぐりあった才能のある男性に接近して、自分でも気がついたときには恋をしていた。

どの恋にしてもおなじくらいの真実で、長続きがするはずだった。しかし、マドレーヌの恋は続かない。
彼女にとっての恋とは自分よりすぐれた相手に自分を結びつけようとする願いに過ぎない。それが首尾よく男と女の性という磁場で果たされたとき、消えるのが当然といったものだった。

ただ、いつもその願いがひとすじに相手に向けられるだけに、自分でも純粋な恋をしていると思い込む」

どうだろう。私は純粋な恋をしていると思い込めるのかな。

ようやくちょっと言葉が自分のなかに戻ってきてほっとしている。軽井沢はハイシーズンを迎えているようで、外出をほとんどしないから私は家族の送迎時、駅方面しか知らないけれど、かなり混雑している。

■安吾■「ただの文学」 2010.2.5

51vk97smxxl__sl500_sy344_bo12042032ここ一週間の夜の恋人は坂口安吾。

と言っただけで親しい何人かの人は「そっか。彼女は自信満々バリバリモードとは程遠い、クライシスワールドにいるのか」と思うはず。そういう人がいることがすごく幸せなのだと感じられるところまで、いまきている。

昨夜は「ただの文学」というエッセイを読んで、文庫本を抱きしめてしまった。比喩ではなく、ほんとに抱きしめた。そうよね、そうよ、だいすき、あんご。

内容は、歴史文学ってものはあるのか? じゃあそれに対抗する文学ってなんだ? 僕には意味不明な分類だ、といったことからはじまって、安吾節が炸裂する。

いわゆる歴史文学で言われがちな、「どれほど真実に近いか」という問題について。

たとえば「小野小町」。どの小野小町に似る必要もない、「どこにもほんとの小野小町はいやしない」。だから、「何人の小野小町が存在してもかまわないし、存在することができさえすれば、文学として、それでいいのではないか」と言う。

そして自分が自伝的小説を書いても、同じことが言える、と言う。実際に在りのままを書いているけれども、だから「真実」であるとは「僕自身言うことができぬ」。

「なぜなら、僕自身の生活は、あの同じ生活の時においても、書かれたものの何千倍何万倍とあり、つまり何万分の一を選びだしたのだからである。

選ぶということには、同時に捨てられた真実があるということを意味し、僕は嘘は書かなかったが、選んだという事柄のうちには、すでに嘘をついていることを意味する

(これって日常生活のなかで私が常に感じていること)

嘘と真実に関する限り、結局、ほんとうの真実などというものはなく、歴史も現代もありはしない。

自分の観点が確立し、スタイルが確立していれば、とにかく、小説的実在となりうるだけだ、文学は各人各説で、理屈はどうでも構わないのだ」

安吾を読んでいると、なんて精神が自由な人なのだろう、と思う。胸が熱くなる。憧れ、少しでも近づきたいと願う。

あいもかわらず、ぜんぜん自由じゃないじゃん、と自分でつっこみたい精神をもてあまして、さらに、人との距離感に臆病なまま結局、慎重すぎて失敗したり、そんななかでも優しくて愛しい色彩に心なぐさめられて、昼間でも氷点下の軽井沢で、今日もひとり奮闘している。

■安吾■「たたかっている気分」 2010.2.10

_s_気持ちが悪いほどに暖かな一日だった昨日の早朝の気温は6度。ラジオによると、軽井沢の場合、これは5月上旬の気温なのだそうだ。5月上旬といえば自分が生まれた季節で、でも、ああ、こんなに寒いんだ、5月上旬って。と軽井沢の5月上旬を暗く感じてどこかに逃げたくなってしまった。

そんな夜に、枕もとの坂口安吾。またしても発見があった。

「作家論について」というエッセイで短いのだけど、ぎゅっと美味しさが凝縮されているような名エッセイだと思う。(もう好きで好きでしょうがないひとだから、どんなのでも抱きしめたくなる状態なのだが)。

安吾は「他人の伝記を書く」ことについて、「自分を表現するために、なぜ他人の一生をかりるか。文学の謎のひとつが、ここにも在ると思う」

分厚い全集をぱらぱらっと繰って、読み始めたところにあった一文だったから、安吾が迷える子羊(少々年齢がいっていしまっているが)状態の私に、アドヴァイスをくれたのかと、一瞬本気で思ってしまった。

聞いたこともない安吾の声が私の耳にそっと、けれど力強くささやく。

「僕は、できるだけ自分を限定の外に置き、多くの真実を発見し、自分自身を創りたいために、要するに僕自身の表現に他ならぬ小説を、他人の一生をかりて書きつづけようと思っている」

この部分、なんども繰り返して読んで、眠りに落ちたのだが、いま、これを書くためにちゃんと読み返したら、ラストのところに次のような文章があった。

「さて、僕は本題の作家論を言い忘れたが、小説の場合に自伝とか他人の伝記とかいうものがあるとすれば、評論家にとって、作家論というものは、小説家が他人の伝記を書くことと同じようなものではあるまいか。
もしそうだったら、作家論というものも、他人をかりて、自分を発見し、とりだすための便宜上の一法であろうと思う。
ただ作家の姿を探すというだけの労作なら、創作集の無駄な序文のようなものだ」

I
読んだ瞬間に、これまた敬愛する中田耕治の『五木寛之論』を思い出した。

ここには「自分の発見」が色濃く流れていた。だから好きだった。夢中で読んだ。

今、私も自分を創作し、考え、生きるということを塗りこめながら、他人の一生を借りて書く。

それにしてもほんとに孤独というのは、なんともいいいがたいほどに、試練。

外は霧が深くたちこめて私を誘うから、窓に背を向けて仕事をする。

■中田耕治■「吉行淳之介の言葉」 2007.11.7

Es__『エロス幻論』。

「人間には、芸術に無縁の人種と、芸術によってしか生きてゆけぬ人種とある。

前者は決して悩まず、うしろを振返ってみることなく、ダイヤモンドのように頑丈な心を持った人たちである。
後者は、そういう人種を軽蔑すると同時に、そういう人種になりたい憧れを持っている人たちだ。
しかし、いくらあこがれても決してそのようにはなれず、ぶつかり合えば、傷つくのは必ず後者であるが、傷つくことを最後には芸術のための肥料にする強靭さは持っている

これは吉行淳之介の言葉。「トニオ・クレーゲル」の一節を彼自身の言葉で紹介した箇所だという。

昨日、久しぶりに会った方と同じ言語で3時間以上おしゃべりをして、内容が似通っていたので、彼女に紹介したかったけれど、どこで読んだか忘れていて言えなかった。

それをいま突然に思い出し、読み返して、ラストの1行の重要さを再発見。

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