■大庭みな子■

■大庭みな子■「女の男性論」 2006.10.3

4122009588「欲望にまつわる哀しさや歓びを知らない人間は魅力がない。

美食をしたこともなければ、飢えたこともない人間は殺風景なテーブルに肘をついて殺風景な話しかしないものである

性的なものの中で多くの人格が培われる。

尊敬、愛情、闘争、克服といったものを自然な形で修得する。性的なものに熱中できない人間はあらゆる情念に不感症である場合が多い。」

27年前に刊行された本なのに、新鮮どころか、時代の先を行っている、と思わせるエッセイ集。大切な本の一つ。

これを読みたくなったのは、自分のやり方に、かくん、と自信がなくなって、迷ってしまいそうになったから。

冒頭に引用したのは、「幸福な夫婦」というエッセイの中の一部。

今回は性的なもの……云々についてよりも、「欲望」を扱った一文に、うたれた。

欲望にまつわる哀しさや歓びを知らない人間は魅力がない。

欲望欲望欲望

親しい友から、さいきん言われた言葉。

けっきょくのところ、あなたは人間の欲望というものに関心が集中しているのね。それでそれを他人の言動ではなく、自分自身を通して知ろうとしているのね。

そう。でも、ときおり、ばたっと倒れそうになる。ぜんぜんそんなのと違うところに身を置きたくなる。けれど、いつもいつも舞い戻ってくる。やっぱり生きる場所はここしかない、といったかんじで。

■大庭みな子■「続 女の男性論」 2006.10.20

110422_115501「疑いもなしに生き、伸びて行こうとするもののさまを見つめるとき、後ずさりし、言葉を交さずにその場を立ち去りたいと思う。

 

 自分に疑いを持っている者は、疑いを持たない者とは対等に話すことなどできないのだ」

「いのちの叫び」というタイトルのエッセイの冒頭。

大庭みな子には、たいてい、激しく共感し、好きだなあ、と思うのだけれど、そして、この部分にも、はっと胸をつかれるほどに、共鳴するのだけれど、なぜだか今日は、「自分に疑いを持たない者」に対して、憧憬に似た感情を抱く。

これは、ここのところ何年か、自分のことを疑いすぎてやってきた反動かもしれない。

もちろん、基本の気質は変わらないので、「疑いを持たない者」に変身することはできないけれど、何事も過多はよくないのだから、ほどほどにしておかないと身が持たない。

だから、すこしは「疑いを持たない者」と接して、なるほど、このようなモノの考え方をすればよいのか、と勉強することも、本気で、必要かもしれないと思う。

とはいえ、私は根がひねくれているから、こんなことを書きながらも、実は、「でも、私は絶対的に『疑いを持つ者』を愛す」と確信している。

■大庭みな子■「続 女の男性論」 2007.12.10

Zoku「私は金銭には欲望のあるほうではないが、いやなことをしないために、自由を得るためになら、他人の価値基準とは関係のない暮らしをするためになら、切実にお金が欲しいと思う」

自分の立ち位置を確認したくて、足元が、どこに立っても砂浜みたいなかんじがして、こころで叫びながら、書棚を見渡して選んだ一冊。

読み進めるうちに、落ち着いてきた。

冒頭の一文は「いのちの夢」というエッセイ。

人はまったく自由だと、自由を感じることができないから、ある程度不自由なのがいい、という定説に反対はしないけれど、自分の価値基準の中で生きられない時間が、ある一定の量を超えると、私はだめだ。

そして、世の中にはお金で解決することを許さない場が、かなりあるから。

疲弊したなあ、と思う夜などは、ただただ、似た価値基準にふれることのできる本たちにすくいを求める。

■大庭みな子■「放浪したい人間」 2010.6.22

Cid_f13fac74882843a8a0701133bc1ef55「偶然つかんだ居心地のよい場所に根が生えてしまうと、ひとはつまらない退屈な言葉で、自分の立場を用心深く守ることしか言わなくなります。
たとえ、それが卑劣なことだとわかっていても、ひとは不器用に、哀れに自分を合理化して、尊大ぶった処世訓を先輩顔にたれるようになります。
わたくしはそんなふうになりたくない。
わたくしは生涯放浪する魂を持ち続けていたい、と思っています。

……

「ほかにどうしようもありません」という彼女の言葉に胸を打つものがあるのは、自分が思うような生き方をする以外に仕方がない、と外から与えられた示唆に従おうとしない態度なのです。わたくしもまた、ほかにどうしようもなくて、うろつきまわっています」

たとえそれが「たった一日」であっても、それまでに見えていたもの、書くべきものの次に書きたいものが眼前に黒いヴェールが落ちたかのように突然見えなくなってしまうと、「生活」というものができなくなる。

それでもそれは私の我がままだし、それを百パーセント受けいれさせるにはまだ年齢的に幼いひとに対してだけは、最低限の「生活」というものをしなければ、と重い精神重い身体をひきずるようにして動く。
それは私にしてみればとても怖い感覚なので、そういうときは本にすがるしかない。

本棚の前に何度も立つ。

大庭みな子の「魚の泪」。

「泪」という字は、目を見開いたままぽろぽろと流れ出る、そういうなみだを思わせる。

クライシスモードにあるときに手にとる本のなかのひとつ。

放浪する魂、を私はもっているのだと思っていた。

けれどここ数年、それはあやしいのではないか、と疑い始めている。

サガンも放浪の魂の持ち主だった。それを、私も同じだからよくわかると瀬戸内寂聴は言った。そして大庭みな子も。

私は、何かを所有しそれに執着することが嫌で、家を持つのが嫌だったのだ。
根が生えるというか、身軽ではなくなることがとても嫌だった。
それでも、いろんな要因が重なり合って家を持つことになった。
そして案の定、身重になっている。

そして、それを認めたくないし否定したくもないから、普段はあまり考えないようにしているのに、こういう文章に出会うと、「違う、私もあなた側にほんとはいるんです」と大庭みな子に言いたくなる。

私は放浪する人間なのか、放浪しない人間なのか。きっと放浪したい人間なのだろう。

いつもこうだ。半端なのだ。こうありたい姿と現実との乖離。思い出した。

女には恋愛に「溺れる女」と「溺れない女」がいる、というような本を書こうとしていたとき、近くにいた彼に私はどちらのタイプでしょう、と尋ねたら「溺れたい女」でしょう、と言われた。そしてその通り。

小説についての部分もあらためてじっくり読む。

「あれはみんな、わたくしが決して喋ることのできなかった、いつもいつも、想っていて、ごくりと呑みこんだ言葉です。そしてまた、相手が確かにごくりと呑み込んだのを、わたくしがこの耳で確かに聞いた言葉です。
わたくしが小説を書き始めたのは、あまりにたびたび言葉をのみこまねばならず、また、相手がのみこむのを聞いたためです」

……のみこんだ言葉で、あふれそうなんじゃないの? と自問する。

■大庭みな子■「それもまた自分の欲望」 2011.1.10

110110_200601「自分が一本の道を歩いていて二者択一を迫られるとき、ひとはしばしば自分の利益にならない、欲していない方を選ぶこともあります。
けれど考えようによっては、そうすることで自己満足しているわけですから、反対の道もまた一つの慾望と言えるでしょう。
人間とはときに不可解な慾望を持つ生き物です。
そしてそれが人間の特性といえるのでしょう」

欲していない道を選ぶこともまた本人の欲望、人間とは不可解な欲望をもつ生き物。

たとえば「まつわりつく小さな娘」のために大学に残って研究を続けることを諦める。
たとえば夫の転勤についてアラスカにゆく。
大庭みな子はそういう過去をふりかえって、それも自分自身の「一つの欲望」なのだ、と言う。

彼女の、こういう視線に共鳴する。

だれのせいでもない、自分自身の選択なのだ、欲望なのだ、という人生のとらえ方。

この本、『魚の泪』については、以前にも書いた。今回は小説を書くことについて考えたくなって、旅先に持って行った。
収穫は多く、「ああ、彼女もそうなんだ」と安堵した部分もあった。

彼女がデビュー以来発表し続けてきた文学作品はだいたいが数年昔のものに手を加えたものであり、なかには十年以上も昔のものもあるのだという。

「作品はある期間寝かせておくと、空間のひろがりを冷静に判断することができます。失われた情熱や感覚が、落ち着いた苦しさで戻ってきて塵を払いのける仕事がやり甲斐のある作業となります」

いくつもの作品が、頭に浮かんだ。ずっと寝たままの作品が、「失われた情熱や感覚が、落ち着いた苦しさで」戻ってくるように思えた。

頭のまんなかがしんと落ち着くような、そんな瞬間をもった。

■大庭みな子■「急所をつく夫婦愛」 2007.9.25

Huu「利雄が浮気をすれば刺し殺す。しかし、みな子には自由を与えよ」

「風紋」から。宝物の一冊となるであろう本。

出版されたことを知ったときからそう思っていた。読んでそれが外れていなかったことがとても嬉しい。

大庭みな子が亡くなったとき、サガンの訃報を知ったときと同じくらいの衝撃があった。

娘の小学校行事の関係で集められた古新聞のなかに、「追悼・大庭みな子」という記事を見つけ、こっそり抜き取ったとき、自分はこんなにこのひとが好きだったのか、と思ったものだった。

大庭みな子への興味は、私の場合は、夫であるひと(利雄さん)との関係性に向かう。「風紋」はその興味を充分に満たしてくれた。

冒頭の一文は「おかしなおかしな夫婦の話」というタイトルの大庭利雄さんのエッセイから。

妻を亡くした悲しみを「半身不随」ならぬ「半身不在」だと表現しているエッセイだ。

妻みな子の言い分は「貴方は女好きで博愛主義者だから他の女に手を出したら離れられなくなる。私は冷たくて情を移すようなことはないのだから一人の男に捉われてしまう心配はないの」

だから、「利雄が浮気すれば刺し殺す。しかし、みな子には自由を与えよ、という不平等条約にサインさせられる結果となった」のだそうだ。

すくわれる。何度も読み返して感激している。普通のとは形が違うけれど、愛としか呼べないものが溢れていて、それがあまりにも私の急所をつくものだから、泣けてくる。

■大庭みな子■ 「闘っているかんじ」2007.10.2

「彼女は毎日毎日、自分が思ってもいないことを平気で口にし、嘘ばかりついていて、おまけに相手が自分の本心を少しも見抜かず、嘘をついても全然きにならないらしいということに気が狂いそうになってきた。

気が狂わなかったのは、一人でこっそり、日常の会話とは全く別のことを書きつけていたからである」

「啼く鳥の」から。大庭みな子に寄り添う。

ああ。未熟者ゆえ、いろんな重圧(たぶん世間的には大したことがない)に耐えかねて、かなり限界にきています、ばたっ。

と倒れたくなるような気分なので、口から言葉が出てこない。誰とも話したくない。

部屋中に「めぐりあう時間たち」の音楽をエンドレスで流して、ただひたすら自分の物語世界に入りこみ言葉を愛でる。

人生の優先順位を決めてからは、少しは楽になったはずなのに。闘っている感がいつまで経っても拭いきれない。

午前中所要があって出かけて道で知りあいの殿方に会った(もちろんお互いに車)けれどこのような精神状態だったのでまともに会話ができなかった。

ずいぶん寒くて一昨日からストーブをつけている。

■大庭みな子■「王女の涙」 2008.6.30

Oujyo「自我の炎をこすりつけてころげまわるような生き方が、自分自身に連なるものとして尖端にあれば、自分自身は平穏に暮せる。燃えている炎は平穏な部分をどのように感じているのであろう。

その中間で、尖端の部分だけを見つめ、地下に根を張って、吸い上げるものの力の在り方は気にならず、ひたすらゆらめく炎ばかりをみつけて不幸になっている人の姿は、今では多少の鬱陶しさを混えた哀切なものに映る」

いまだって、もちろん(と威張ることではないが)平穏無事に暮しているわけではないけれど、ずっしりと張った根がひっきりなしに吸い上げているものには愚かなほどに鈍感で、炎ばかりに敏感になっている姿が、すこしだけ過去の自分として映るようになった、ように感じた。

唐突だけれど、ひところ流行った「自分探し」という言葉の胡散臭さを思い出した。

自分探しをしている自分は、ずっしりと根を張り、何かを吸い上げて生きている。そうしたままで、ゆらゆらと揺らめく炎を見るように、「ほんとうはこうなんだ、わたしは」と思いたい自分を「本当の自分」として、それを探している、そんなイメージ。

気が散りまくる季節がやってこようとしているなか、なんとか集中して、雑念にふりまわされず、今とりかかっている一つの作品を創り上げたい。

■大庭みな子■「魚の泪」 2008.8.19

「偶然つかんだ居心地のよい場所に根が生えてしまうと、ひとはつまらない退屈な言葉で、自分の立場を用心深く守ることしか言わなくなります。

たとえ、それが卑劣なことだとわかっていても、ひとは不器用に、哀れに自分を合理化して、尊大ぶった処世訓を先輩顔にたれるようになります。

わたくしはそんなふうになりたくない。わたくしは生涯放浪する魂をもちつづけていたい、と思っています」

「放浪する者の魂」というエッセイ。

机の上を整理していて、手にした文庫。ぱらぱらっとページを繰って、目をとめる。息をとめる。

代弁であり示唆であり警告であり、そして真実である。このような文章を、私は今夜は胸にだきしめて、痛い、と言いながら眠りにつく。

■大庭みな子■「啼く鳥の」 2008.4.24

Naku_3彼女は日常生活でもし自分が感ずるままのことを言ったり、したりしたら、それは攻撃的な、怒りと憤懣と悲しみに充ちた露悪的なものになり、他人を不愉快にし、その結果、みんなに危険な人間だと思われるに違いないと思ったので、嘘をつき続けるしかなかったのだ。

 

嘘とはつまりこんなことだ。

いやなことでも「はい」とすなおに言ったり、笑いたくないときでも笑ったり、つまらないことでも一生懸命やって、更に一生懸命やり続けることで、自分の頭を麻痺させてしまうというようなことである。

だがもちろんそんなことは取り立てていうほどのことはなく、見まわせば彼女の周囲の人びとは多かれ少なかれそれに似たようなことをしている感じだったので、しまいにはこの狸と狐の化かし合いのような生活というものが、やはりそれなりに何らかの意味があるのであろうと考えないわけにはいかなかった

頻繁に思い出す箇所で、昨夜も眠る前に頭に浮かんで、いつもは反応しないラストの部分に反応した。

「何らかの意味」があるのだろう、と私も考えないわけにはいかない状況になっているのではないか。

そんなふうに思い、かなり衝撃を受けるという形での反応。

限りなく白に近い灰色の空から、雨がぼたぼたと落ちてきている、閉ざされ感ひじょうに高い、落ち着く朝。