■サガン■

サガン■「愛という名の孤独」 2007.9.13

_1_不幸からは人間は何も学びません、不幸は人に大打撃を与えるだけです。人を瀬戸際に立たせるだけです。


私自身が不幸な時、いつもそのことを恥に思っていました。

不幸であることは、品位を落とした状態なのです。


……試練が人を養うという考えは、まったくの嘘。

幸せな時のほうが学ぶことがずっと多いのです


いかにもサガン的な意見に、今回はラインを濃く引いた。


不幸であることは品位を落とした状態。

これ、たしかに思い当たるところが多い。

けれど、自分は幸福だとしている人たちが品があるかといえば、周囲を見渡して、そうでもなく、もともと品というものは、備わっている人とそうでない人がいる、というのが今の私の実感。


そしてこのところは「品」と「情」の関係に注目している。

自分の周囲の人しかリサーチできないけれど、勝手に判断すれば、「品のある人は情があり、情のある人は品がある」。


そしてさらに、「品」と「情」を備えている人には「生きるセンス」というものがある。


お金を持っているか持っていないかは重要ではない。


生きるセンスとは、やはり「自分なり」の幸福を追い求めることにつながる。

だから不幸の中に価値を見出したりしないのだ。

とサガンにつなげたいところ。

■サガン■「厚化粧の女」 2006.9.12

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「それならその人は相手を本当に愛していないんですよ」

 

「愛し過ぎているとも言えるんじゃないでしょうか?……

 

「同じ事です」

愛について登場人物の二人が交す会話。

相手のことを本当に好きなら、相手に夢中になっているならその人の望むことは、なんでもしたいと思うはず、という女に対して男は、それは愛ではない、と言う。

愛しすぎることは、本当に愛していることとはいえない。

というこの理屈に反応したのには二つの理由がある。

一つはとても単純で、教訓的に共感したから。

たしかにね。あなたのこと、ほら、こんなにこんなに愛しているのよ、と迫られて、おなかがいっぱいのところに、一方的に愛を注がれて、幸せいっぱいになる人は、稀だろう。愛はやはりときどき、放任、無執着が必要だ。

もう一つは「本当に愛している」というその言葉に違和を覚えたから。

いったい、「本当に愛する」とは何なのか。

本当の恋、本当の愛。自分自身が、「これは本当よ、私にとっては真実の愛」と思っていても、他人は「そんなの真実の愛じゃないよ」と思う、そして時々それを口にする。

恋とか愛とかに本当も真実も嘘もないのではないか

一瞬一瞬の胸の温度だけが、大切な事実であって、それが持続するか否か、あるいは、命云々、といったことで、「判断」するのは、下品な行為ではないか。

もちろん、私はいろんなところで、「これが最後」、あるいは「このまま死んでもいい」と思えるくらいの恋愛でなければ! と書いてきた、言ってきた。

そして、この考えは今でも変わらない。

けれど、このような恋愛は、一生に一度、体験できれば幸福(そのさなかにあるときは、とてもじゃないけど幸福という言葉は頭に浮かばないけれど)なことであって、だから、それ以外のものを否定していたら、人生は禁欲的で退屈にならないだろうか、と近頃は思う。

だいたい、「ちょっと心ときめく人」に出逢うことさえ、とても希少なのだから、その数少ない貴重な出逢いを、やはり否定したくはない。

本当か本当じゃないか、なんて誰にもわからない。絵画と同じで、観る角度を変えれば、まったく違った印象になる。

■サガン■「水彩画のような血」 2006.8.30

51xbzhu9tl「ワンダとも何と多くの役柄を演じてきたことか。分別のある監督と勝手気儘なスター、物静かな夫と不倫の妻、浮気する愛人と家庭的なスター!」

映画監督である主人公は、妻ワンダと、美青年ロマーノを愛している。

有名女優である妻ワンダとの結婚生活(通常私たちが想像するようなものではない)について考えを泳がせたときの彼の心情。

結婚生活において、多くの役柄を演じているのはこの主人公だけではない。

自らの人生」について意識的に生きている人であれば、たいていは、それが多くはないとしても、少なくとも、いくつかの役柄を演じていると思う。

私自身は、最近とくに強く感じていることだが、その役柄が多ければ多いほど、生きている実感を得ることができるようだ。

ところで、この主人公が自らに問う、次の言葉も印象的だった。

 

「自分自身を少しも愛さずに、二人の人間を同時に愛することなんてできるだろうか。」

主人公は自らについて、「ぼくの血管の中には血など流れていない、流れているとしても薄くなった血だ、水で薄めたような血、水彩画のような血だ」と認識しているような人間。

それでも、二人をこれほどまでに愛せるということは……、というあたりがポイントになってくるのだけれど、やはり、そう、自分を愛せなければ、相手が一人でも、かなり無理があるし、二人ともなれば、絶対不可能だと、私も思う。

とすれば、自己愛の強い人ほど、他者を愛せる、となる?

とは、私には言えない。

けれど、愛とか情とか、そういうのをもともといっぱい持っている人と、そうでもない人と、けっこう少ない人、というのはあると思う。

 

 

 

だから愛とか情とかそういうものをたくさんもっている人は、それを自分にも注ぐし、他者(惚れた人)にも注ぐのだと。そうせずには、自家中毒を起こしてしまうから、そうしないではいられないのだと。

そのように思うことは、ある。

■サガン■「愛と同じくらい孤独」 2006.8.11

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わたしの場合は幸せが好きですから、かなえられない欲望は持ちません」

クライシスモードのときに、手にするバイブル本のひとつ。

結婚や恋愛、人生についての名言満載なので、読むたびに心に響いた箇所にラインを引くから、数種類の色のラインでごちゃごちゃ。

今回は、ラインがまだ引かれていない箇所。

かなえられない欲望は持たない、って、サガンの場合は、他の人たちとくらべて、「かなえられない欲望」のアンダーラインが高いのだろうけれど。

この一言に、目が釘付けになってしまった。

次に続く言葉も、簡単なようで、私にとっては意味深いものだ。

「自由というのは、楽しんだり、感動したりすることに素直に身を委ねることだと思います」

自由であるためには、自由であるがために、踏みにじったものたちに対して無感覚でいる努力を必要とするのだろうか。

それとも、感じない気質体質を基本的に必要とするのだろうか。

……おそらく。

まったくの自由なんて、ありえないし、たぶん、私は、求めていないのだろう。