■2006年■

■生まれつきのもの 「美の死」 久世光彦■ 2006.12.19

51xc1zwxw3l「だいたい色っぽいということは、男なら<生勃え(なまおえ)>、女なら<生濡れ>でいる状態のことだとぼくは思っている」

 

「ぼくの感傷的読書」というサブタイトルの本。

吉行淳之介について語られたエッセイの中の言葉。エッセイのタイトルは「生勃えの戯れ唄」。

 

「生勃え(なまおえ)」、という言葉をはじめて知った。

久世光彦はこれの親戚として「熱めく(ほめく)」という言葉も使っている。

どちらも、言葉が、言葉としてその意味するところを鮮やかに、そして甘美にイメージさせる

久世光彦の言葉の選び方が、私は好きだ。そこには彼の美学がある。

 

久世光彦は「ぼくの吉行さんは、いつだって<生勃え>だった。可笑しくて、ちょっと哀しい<生勃え>だった」と言う。

 

そして、「あの人は、朝の散歩をしていても、電車に乗っていても、猫に餌をやっていても、もちろん女の人に微笑ってみせているときでも<生勃え>に勃えていたに違いない。たぶん死ぬまで勃えきることができなかった代わりに、絶え間なく勃えていたのだと思う」。

 

いつどんなときだって、色っぽい人だったとよく言われるが、それはそういうことなのだ」。

 

そして冒頭の一文が続いて、

 

ネガティブにとらえられがちな「生」だが、これが「四六時中となると、それこそ半端ではできないことだ。

少なくとも、意思の力だとか、鍛錬だとか、習慣とかだけで、そうなれるものではない。

たぶん、血統、そうでなければ人種みたいなものである。

つまり、<生まれつき>といっていいのかもしれない」と、言う。

 

久世光彦の、吉行淳之介に対する共鳴の声が聞こえてきそうだ。

 

色っぽいって、<生まれつき>

久世光彦は吉行淳之介に共鳴し、私は吉行淳之介に共鳴する久世光彦に、ずうずうしくも共鳴する。少し悲しみながら。

■醜と美 「遊女クラリモンドの恋」 野内良三 編訳■ 2006.11.17

Yu美は一つだ。醜のみが多様なのだ

フランス・愛の短編集。とのサブタイトルがついた本のラストの一編。

バルベー・ドールヴィイの『女の復讐』のなかの言葉。

たしかに、「どのように」といった説明を必要とするのは、「醜」に出会ったときかもしれない。

「美」は、実際はいろんな形容はするけれど、説明はいらない。

醜と美。一日をふりかえってみて、「美」の瞬間、「醜」の瞬間について考えてみる。五感がとらえたものはもちろん、自分自身の心情、行動などもふくめて。

体調も精神状態もよく、満たされ感が強いときには「美」の瞬間を多く感じる。

同じ景色が目の前に広がっていても、心身の状態によって、心が受け取る景色は異なるということだ。

今日はどこまでも白い空。

初雪という言葉が浮かびそうな、空。

■すべては意志のせい 「孤独について」 中島義道■ 2006.10.5

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「ニーチェの不可解きわまる思想のうち、私がごく最近了解し始めたことがある。

それは『何ごとも起こったことを肯定せよ

一度起こったことはそれを永遠回繰り返すことを肯定せよ』」

という「運命愛」と名づけられている思想である。

つまり、私に起こったことすべてを「私の意志がもたらしたもの」として捉えなおすことだ。」

中島氏の著作は、たいてい、面白い。私は好きだ。

「孤独について」のサブタイトルは「生きるのが困難な人々へ」。

ニーチェの「運命愛」についてのくだりは、現在の私に強く響いた。

このところ身の回りに起こっている、人との出逢い、摩擦、失望、恐れ、ときどき悦び、再び失望……といった事柄も、「すべて、私の意思がもたらしたもの、すべて、私が選びとったもの」と考えれば、なにやら、そんな気もしてくる。

もちろん、すごく無理をしなければそう思えないこともあるけれど。

いいえ。そうなのだ。すべて自分の意思がもたらしたものなのだ。

そのように、うなずくことができるときは、いつもよりも視線が冷酷になる。

おどおどとした色がなくなり、冷酷に強さ(傲慢さ)がプラスされる。

背筋が伸びて、人生短いのだから、やりたいことはできるだけ早いうちにやっておかなければ、と思う。

ずいぶん、飛躍しているようだけれど、私の思考はどうしても、そのように流れてしまう。

■問題は自分自身 「ロレンス短編集」 ロレンス■ 2006.10.10

51rorpqtpil問題は自分自身ね。自分が自分自身であり叉自分自身の神に仕えているかどうかということよ。」

短編集「春の陰鬱」のなかのヒロインのセリフ。

昔の恋人がヒロインに、新しい恋人とうまくいっていて良かったね、といったことを言うと、それに答えて、彼女は「でも男なんかそう問題じゃなくてよ」と言う。そして冒頭のセリフが続く。

恋に溺れてめろめろなのも好きだけれど、こういうのもいい。

私はここにある何に惹かれて黄ばんだ文庫のページの端を折ったのだろう。

やはり、何をおいてもまず自分自身であるということ。

これがないと、たぶん、私が自分のなかで重大事としている恋愛も、私が望む形のものにはならない、と思ったからか。

ラストでヒロインは、新恋人から結婚を急かされるが、それに対して次のように言う。

「でも何故私達はすぐ結婚しなけりゃならないの?」

……「結婚したって、これ以上の何が得られるの? このままでいるのが一番美しいのよ」

このセリフに対しては、ページの端を折らなかった。

だって、結婚したってしなくたって、そう、どちらにしても、「このまま」「一番美しい」季節を継続するのは、不可能だから。

■不機嫌は怠惰 「若きウェルテルの悩み」 ゲーテ■2006.10.16

61rrbyaghsl不機嫌は怠惰と似たものです。その一種です。われわれの性情はともするとそれに傾きます」

不機嫌は、むしろ、自分のくだらなさに対するひそかな憤懣ではありませんか? 愚劣な虚栄によって煽られた嫉妬とつねに結びついている、自己不満ではありませんか?」

ウェルテルが「不機嫌」について、熱く語る箇所から。

不機嫌は怠惰。

 

不機嫌は自己不満。

 

そして、

 

不機嫌は悪徳。

これを読んだ翌朝、寝不足で体調が悪く、不機嫌な顔をしている自分自身に気づき、「不機嫌は怠惰、自己不満、悪徳! いけないいけない」と戒めたが、なかなか難しかった。

不機嫌は、むしろ、体調が大きな影響を与えるのかもしれない。

それから、たとえ不機嫌であっても、対応する相手によっては、それを隠すことが可能だ。

とすれば、外に現れた不機嫌は、相手への甘えがあることへの証拠

甘えられる相手がいることは幸福でもあるが、甘えすぎると、幸福が崩れる。

甘えすぎは愛情表現では、けっして、ない。

甘えすぎを抑えようと、不機嫌を、できるかぎり抑えようとする、気持ちの動きのほうが、より愛情表現に近い、と考える夕暮れ。

■魂の武器 「夜と霧」 フランクル■2006.10.26

41x13rtcgrlユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ

ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ

なにかの拍子で、突然に深い森の中に迷い込んでしまったとき、「夜と霧」を読みたくなる。

いくつもの箇所にラインが引かれ、書き込みがなされたこの本に、いままで、いくどなぐさめられたことか。

今回は、ユーモアについて述べられた箇所がぐっと胸にしみた。

「ユーモア」。

これはつねに私のなかで、重要度において、高位にランクされているけれど、深い森の中に迷い込んだときには、私の体内に身を潜め、その存在すらないかのようになる。

森の中で迷子。

この気分は、ようするに周囲との距離を失い、状況にうちひしがれていることから生じるのだ

そのときは、わからないけれど、後になっていつもそう思う。

いつもいつも太陽の方を向いて歩いていけたらな、と思うけれど、四十年生きてきて、そうはできないのだから、受け入れるしかない。

ちあきなおみが歌う「夜へ急ぐ人」を聴いて、胸が熱くなる性質なのだから。「かんかん照りの昼は怖い。正体あらわす夜も怖い」って彼女は歌う。

■意見を求めない 「読書する女」 レイモン・ジャン■ 2006.9.22

71vwv49tal「ねえ、君、人生では誰もが自由で、誰もが独りなんだ、したいと思ったこと、楽しいと感じることをすればいい、でもそれには人に意見を求めてはいけない

主人公に恩師が言う言葉。

目新しい言葉ではないのに、はっとしたのは、「でもそれには人に意見を求めてはいけない」という部分。

人の意見というものに、ほとんど耳をかさないでいるのに、ときに、人の意見に人生をゆだねたくなるのは、もしかしたら、そのとき私は、投げやりになっているのかもしれない。何に? 人生に。

そんなふうに突如として思って、今は、敢えて、人に意見を求めてはいけないのではないか、そんな気がした。

いつもの就寝前の読書タイム、ベッドのなかで。

■個性の消滅 「ユニコーン」 アイリス・マードック■ 2006.9.28

U「彼は時々自分がマックスに恐れの感情を抱いていることに気がついた。

彼が恐れるのは老人の悪意でも、批判でさえもなく、ただマックスとの接触によってなんとはなしに自分の個性が消滅して行くことだった

マックスは「彼」にとっての恩師にあたる人物。

「彼」がマックスに対して抱くような感情を、ある人に抱くことは、私にもあるかもしれない。

いま、特定の誰かの顔が思い浮かばないのは、たぶん、私の場合は、その時々の自分と相手の気分の波によって、それが訪れるから。

もちろんそうなりやすい人とそうでない人というのはいるけれど、ときおり、話している相手に「恐れの感情」を抱き「自分の個性が消滅して行く」感覚を味わうことがある

そして、ときによって、それをうとましく思ったり、自己嫌悪したり、個性が消滅してゆく感覚に自虐的な快楽を味わったりする。

そして、いつものように、他者と自分との「組み合わせ」に考えが泳いで、窓いっぱいに広がる緑の葉と秋晴れの朝の空を眺めながら、もしかしたら、この組み合わせというものも、個と個だけでは測れない、その瞬間の、互いの「気分の波」が強く影響するのかも、と思う。

■待っていたのだ 「ポール・エリュアール詩集」 2006.8.1

Peわれわれは待っていたのだ おたがいの姿をみるために いつまでも

なぜなら われわれはたずさえていたのだから 愛を 愛のわかさと

そして愛の理由を

愛の知恵と

 そして不死とを

(「戦う七つの恋愛詩篇」より)

ロマンティックが好きなのに、それから遠く離れているように感じて、久しぶりに詩集を開いた。

現実を見れば、絶望のどん底に落ちてしまいそうでも、それでもやはり信じたいものを、エリュアールの詩に見出して、エリュアールだいすき、とつぶやく夏の夕刻。

■欠けているもの 「女の学校」 ジッド■ 2006.8.7

Onロベールさんのそばにいてはじめて、私は自分に何が欠けているかがいちばんよくわかる

ロベールというフィアンセに恋するヒロインが日記に綴ったフレーズ。

私たちは、いろんな人に会うけれでも、相手が男性であれ女性であれ、「自分に何がかけているか」がよくわかる人と会うことを、「出逢い」というのではないか

今までの恋愛を思い起こしてみても、みな、このような感覚を抱いた人ばかりだった。「出逢い」だった。

女性に対しても、好感をもって今度もおつきあいしていただきたい、と願う人は、私に同様の感覚を抱かせる。これは「出逢い」だわ、と思う。

逆に「もう会わなくていい」と思う相手にはこのような感覚は抱かない。

自分にはない何かをもっている」とは思っても、それを「自分に欠けている」とは受け取らない。「なくてよかったもの」として受け取る。ただ「会った」という物理的な接触だけで「出逢い」ではない。

「女の学校」は、ジッドの「ロベール」「未完の告白」の三部作の第一作。

三作続けて読んで、ひじょうに面白かった。

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