■2007年■

■「孤独について 生きるのが困難な人々へ」 中島義道■ 2007.7.18

4182xmss6bl私は自分に興味があるが、ほとんどの他人には興味がない。

私に興味を示してくれるほとんどの他人にも興味がない。

とはいえ、相手に向かって「あなたにはまったく興味がありません」と言うことは、世間ではほぼ禁じられている。

とすると、私はあたかも他人に興味を抱いているかのようにふるまわなければならない。

私はこの嘘が、たいそう煩わしくなってしまったのだ。

そこで、孤独になるほかないことを知った。

さらに孤独になって、さらに書くほかないことを知った


私は上の引用を、ほとんど笑いながら書いた。爽快感で、微笑が。

好きな作家の一人なのだ。


本棚ではなく、机の上に並べられている数十冊の本。

タイトルにふっと惹かれて手にとってしまった。

読むのは二度目。やらなければならないことがあるのに、今の私にとって、魅力的なタイトルだということか。


書くというやくざな営みをしながら、世間一般の幸福を追求するなどというのは虫がよすぎる。書くことによってほんの一握りの賛同者と膨大な批判者・無関心者が生まれることは必至のことである。それを丸ごと呑み込むとき、人は書き続けるようになる


「ますます自分だけしか興味がなくなってしまった」中島氏は、「血の言葉」を吐き、自分のことを書き続ける。フィクションではない。ノンフィクションだ。


自分との差異をここに見る。


類似に微笑みながら、うなずきながら、それでも同一人物であるわけがないから、差異はあるわけで、類似するところが多ければ多いほど、その差異が意味深く、強烈になる。


昨日は濃霧で、今日は薄い霧。家にいていいんだよ、と霧に許可されて、とても仕事がはかどるはずの夕刻。

■「ドストエフスキーのおもしろさ」 中村健之介■ 2007.11.7

71v7ik4mbsl「苦しみと涙、それもまた生なのだ」


こういうシンプルな一文に胸をつかれるシーズンにいるということなのだろう。


昨夜、自分の中のある色彩を呼び戻したくて「アナイス・ニンの日記」を読み、その中にアナイスがドフトエフスキーに夢中になったくだりが出てきて、そういえば、私にもいくつかドフトエフスキーの言葉があったな、とノートを開いた。


そうしたら岩波ジュニア新書からの引用がたくさんあって、びっくり。

そうだった。

全体的なことを調べたい時に、図書館で借りてきたのだった。

「カラマーゾフの兄弟」しか、ちゃんと読んでいないのかもしれない。


あーあ。もっと軽やかに生きられたらな、とも思うけれど、それでは絶対に満たされないことも知っている。

じゃあ、もっと明るく? 明るいのはいいかもしれない。そこに重さがあれば。

明るい=軽やか 暗い=重い

でもないか。


このように考え始めて、同じところをぐるぐると回り続ける。

そうして、ふいに、こんな私から離れることなくつきあってくれている人々に対する感謝の気持がいっぱいに胸に広がったりするので。

「ありがとう」

「紅葉燃えるシーズン」から「最後の一葉」状態になっている軽井沢。窓外の空は雲ひとつなく、美しい水色。

■正義に対して武装する 「地獄の季節」 ランボオ■ 2007.11.27

61xfniidupl「俺は正義に対して武装した」


正義という言葉を、ためらいなく疑いなく口にする人に出会うと、急用を思い出したくなる。


本でもそうだ。

先日もあるベストセラーを読んで、最初から、正義感、倫理観、という言葉がためらいなく疑いなく使われていたので、唖然とした。品格に関する書籍だった。


正義、倫理、それを使うのが嫌いなのではない。

もっと慎重に扱いたいのだ。

せめてその言葉の前に「私なりの」「自分なりの」という個人が欲しい。

と思っていたときに、ふと開いたランボウ。

以前は

「ある夜、俺は『美』を膝の上に坐らせた。--苦々しい奴だと思った。--俺は思いっきり毒づいてやった」

のくだりが大好きだったけれど、今回は「正義に対して武装」、これ。


軽井沢は車が凍る季節となった。ペレットストーブの炎ゆれるリビングでとろとろしていても許される季節でもあるようで、嬉しい。

■東京暮色 「私の嫌いな10の人びと」 中島義道■ 2007.10.11

51gm9wkahfl「たぶん、彼女はやはり遠いところをぼんやり見つめながら、ありとあらゆる解釈を拒否して、静かに死を迎えるように思われる。

彼女はこう生きたのであり、こうしか生きられなかったのであり、それがすべてなのです」

「わが人生に悔いはない」と思っている人が著者は嫌いで、そういう台詞を、きらきらっとした眼差しで普通に言える人々に「ドカンと大砲を打ち込む」ために、小津安二郎の「東京暮色」を持ってきている。


その部分を読んで、ぜひとも、映画が観たくて、私が好きなジャンルではないけれど、DVDを借りた。そして観賞後、再び、その部分を読んだ。


映画について語られた文章で、こんなに感嘆することは、ほとんどない。

荻昌弘の映画評論を読んだ時の感動を思い出した。

「彼女はこう生きたのであり、こうしか生きられなかったのであり、それがすべてなのです」

この一文には、人生そのものがある。


そんな風に感じて、それが頭から離れなかったから、夜のスーパーマーケットで、様々な人々を眺めながら、彼、彼女たちの人生に想いを泳がせてしまった。

どのように生きているのか、どのようにしか生きられないのか。

何のために、何を考えて生きているのか。


なかなか買い物が進まない。何度も同じところをぐるぐる回ることになる。信じられないくらい時間がかかる。

スーパーマーケットが現実味がなく、別の世界を漂っているようなかんじ。ふわふわと。

あぶないので、運転する時には、頭をぶるんぶるんと振って、現実に戻るようにしている。

■「ある女の復讐」 バルベー・ドールヴィイ■ 2007.10.12

Yu「美は一つだ、醜のみが多様なのだ」

 

短編集「遊女クラリモンドの恋」におさめられている物語から。

最近読んだ本でもないのに、なぜか、ここ数日、このフレーズが頭をくるくる回っている。

そしていちいち、様々な場面で納得する。

たとえば、「私は美の収集よりも醜の収集が得意なことに、引け目を感じていたけれど、これは当然だった。美は一つだから収集しようがないもの」といったかんじで。


風が冷たい軽井沢。床暖房でぽかぽかの我が家の仕事場の窓から、色づいた葉が見えています。

今日は懐かしいひとから電話があったのに、連絡先を聞くのを忘れてしまった。

■「Icon 伝説のバレエ・ダンサー、ニジンスキー妖像」 芳賀直子■ 2007.10.26

51da11kdgvl_2紛れもなくこれは天才だった。まるでそれは恍惚であり、ほとんど神技に近かった」(チャールズ・チャップリン)

 
ニジンスキーの名前は、ロシア・バレエを率いたディアギレフとともに、知ってはいた。

ジャン・コクトーやシャネルのあたりをうろうろしていると、かならず登場する人だったから。

けれど、こんなにも彼の姿が私のこころに迫ったのは、昨日が初めてだった。

チャップリンの言葉は、おそらくニジンスキーの魅力をどんぴしゃに言い得ていると思う。

「まるでそれは恍惚であり」……これと同じ感覚を私は知っている。

マリア・カラスのコンサートフィルムで、それから最近毎日のように観て感涙しているエディット・ピアフのコンサートフィルムなどで、体感しているから。


神技とまでは言わない。けれど一瞬でもいいから「まるでそれは恍惚であり」という感覚を文章で、感じさせたい、などと不遜にも願った。

それにしても、この本は、読む(観る)側の私たちに、きちんとニジンスキーと向き合うことを余儀なくさせる。

私はこの本に出会って、世の中にいかに多くの「余計なキャプション」というものが存在するのかを知った。

■ヴァリーの告白 「エゴン・シーレ展カタログ」■

20130816_43cd2d「私は、今日1913年1月8日に明言いたします。この世でだれも愛してはいません、と。ヴァリー


シーレのミューズ、あの有名な、そして私にとって特別な「死と処女(おとめ)」のモデルとなったヴァリー。

彼女については詳細な記録は残されていなくて、けれど一度だけ、シーレのスケッチブックの中に自分の言葉を書き込んでいる。

それが、この一文。冗談めかして言っている言葉らしいけれど……。


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年のシーレ展カタログを手に入れて、初めて知った。

「哀しみの女」のページにあった。

そこには続けて次のような言葉がある。


シーレとの生活で資料として残されたヴァリー側からの積極的な表現が、このことばだけであったこともまた象徴的で、痛切な事実である


冗談であろうとなかろうと、とっさに書いた一文であろうと、この世でだれも愛してはいない、という言葉を綴るヴァリーに、きっとシーレは魅せられたのだろうな、と思う。

そのひとをかわいがりたい、という情熱とは違う種類の情熱だっただろうけれど。


軽井沢は紅葉シーズン。木々の色が、おそらく同じ色は何一つとしてない葉が、とても美しいです。

早朝などはずいぶん冷たくて、車の外気温表示「5℃」などに、マイナスになる日がもうすぐそこまで来ていることを知らされる。

■サンギーヌ 「プレヴェール詩集」 小笠原豊樹 訳■ 2007.9.3

61rox4idcal__sl500_「ファスナーが稲妻のようにきみの腰を滑り

 きみの恋する肉体の幸福な嵐が

 くらやみのなかで 

 爆発的に始まった

 きみの服は蝋引きの床に落ちるとき

 オレンジの皮が絨毯の上に落ちるほどの音も立てなかったが

 ぼくらの足に踏まれて 

 小さな阿古屋貝のボタンは種のように鳴った

 サンギーヌ・オレンジ 

 きれいなくだもの 

 きみの乳房の突端は 

 ぼくのてのひらに 

 新しい運命線を引いた 

 サンギーヌ 

 きれいなくだもの 

 夜の太陽。」


Kさんからいただいた詩集、「サンギーヌ」というタイトルの詩があまりにも熱くて美しく、以前に感動したジャック・プレヴェールの詩を過去のノートの中に探した。

みつからなくて、さきほどようやく探し当てた。

訳は誰の手によるものなのかわからない。

親友が訳したものか、あるいは翻訳を仕事としている知人か。


タイトルは「アリカンテ」。


テーブルのうえにオレンジが一つ

絨毯の上にきみの服

そしてぼくのベッドのなかにきみがいる

今このときの愛しい贈り物

夜の涼気

ぼくの生命の火照り


地球の温暖化をとめることがきなかったとしても、まだ生きたかった人を殺す人間がいて、それをどうすることもできないとしても、私はプレヴェールのこういう世界を愛する。


プレヴェールはけれど恋愛詩よりもむしろ、社会に対する彼自身の目を持っていて、それを表現したことで知られている。

そう思うと、やはり、といつもの結論に達して安心する。


愛しい女性と共にいる風景をこのように美しく熱く描写するその感性は社会に向っても美しく熱く伸びてゆくのだと。


久々に、何度目かの「天井桟敷の人々」(プレヴェール脚本)が見たくなりDVDを借りることにした。買ってしまうかもしれない。先日「ドリームガールズ」買ったばかりなのに。

■圧倒的な美 「セルジュ・ルタンス―夢幻の旅の記録」■ 2007.9.4

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セルジュ・ルタンス。

「フランスの知性、哲人」と称されるアーティスト。

資生堂のイメージクリエイターとしても知られる。

写真集の、このカヴァの美しさときたら、圧倒的。

そして、言葉がまたいい。

「『美』というものは希少さを望んでいるのです」

また、「赤と黒」について。


私がいちばん好きな二色。私の赤は強迫観念、黒は私に混じり合う」


セルジュ・ルタンスと好きな色が一緒。

私の場合は……。

「赤と黒」は私がいちばん好きな二色。

私の赤は切り札、黒は私を隠してくれる。

と、言いたいな。

■「ひとを<嫌う>ということ」 中島義道■ 2007.9.6

41e5n08z5bl「ひとを嫌うことをやめることはできませんが(そして、その必要もないのですが)、自己批判的に人生を見られるようになる。

他人から嫌われても、冷静にその原因を考えれば、たいていの場合許すことができるようになる。

こうして、ほんとうの意味で他人に寛大になれる

嫌うことをやめるのではなく、嫌われていることに眼を覆い耳をふさぐのではなく、あくまでも繊細にその原因を追及し、わからなければ「生理的嫌悪感」という行き止まりで納得する。

こうした態度にもとづいた人生は、不幸かもしれないけれど、真実を恐れつづけて幸福に浸っている人生よりずっと充実しているように思われる。強く豊かな人生であるように思われるのですが、いかがでしょうか」


ここ一週間、私をすくってくれた本。眠る前には必ず開いた。読むのは三度目。(じつは一週間前には『私が嫌いな10の人びと』で、心のもやもやをすっきりさせていた。「いい人」の鈍感さが我慢できない。という帯のコピーを私は熱愛している)。


一度でいいから「軽井沢夫人」と対談して欲しいと思う。私ではだめ。「軽井沢夫人」でないと。


新しく本を出すと、それにまつわる儀式がすこしあって、それに反応する、あるいは無反応の人々とのつきあいがうまくできない。

いつもそうだけれど、いつも疲れる。


中島義道さん、ありがとうございます。

ジャン・マレーは「真実の中にしか幸福は見出せない。自分をさらけ出すこと、それが他の人の助けになりうるのだ」と言いましたが、あなたの書いた「血がしたたるほどの真実」は、こんなに私をすくっています。


台風で、外はひどい状態。ゴア元副大統領の「不都合な真実」を観てから、初めてのひどい台風で、私はとても怖い。

軽井沢に移住して、自然をこんなに怖いと感じたのは初めて。どうか、ひどい被害なく、通り過ぎてくれますように。