■2008年■

■■ハンマースホイから受け取ったこと■■ 2008.12.4

E親友(私にもいるのだ、魂をそっとつつんでくれるようなひとが)が、「めずらしくチケット二枚買ったから一緒に行かない?」と誘ってくれた、ヴィルヘルム・ハンマースホイの展覧会。


私はその画家を全然知らなくて、行く前にウエブサイトをちらっとみて、「静謐な」という言葉と、それに類似した言葉がたくさんあったので、今の私には、「砂漠に水」のように(ああ、陳腐すぎる表現だ)、必要なのかもしれない、と本気で楽しみだった。

  

 

場所が上野の国立西洋美術館。

思い出のたくさんある場所で、それだけで懐かしくて涙が出そうだった。

ロダンの彫刻を見ただけで、胸がしぼりあげられるような。

恋と野心で、ぼうぼうと燃えていたあのころ。……と、おばあさんのように回顧気分。


さてハンマースホイ、私、とっても好きだ。
誰もいない、ドアが異様に目立つ室内画が、だんぜん心に迫ってくる。


これらの絵、私のなかの、キーワードは「距離」。

そう、私は、ハンマースフォイの室内画に、「距離を置け」「拒絶しろ」「ときには自分を守れ」との声を聞いた。

(ここんとこ、ずっと味方だと思っていた異性から、矢が飛んできて当たってしまって痛かったのです)


美術館は混んでいて(週末に行くから悪いのだが)、またしても私は日本のいったいどこに、こんなにたくさん美術ファンが……!……ああ……。

と絶句する。


いちいち並んで歩いて、行列しながら一枚一枚観ることはしない。

さささのさ、と、入場料がもったいないくらい早く歩いて、気に入った絵の前では、ねばる。

そんな観賞の仕方が、親友とは同じで、だから、心地よい。


極上のひとときって、これをいうのよね。と、胸があたたかくなるような、そんな美術館、そんな美術展だった。


もちろん常設展も堪能してきた。

ロセッティの「愛の杯」、こちらは数年ぶりの再会。相変わらず、美しかった。


帰宅して「ああっ、楽しかったー」と言ったら、「久しぶりに聞いたなあ、そのトーン。よかったなあ」と返事が返ってきて、今日一日の重要さを再認識したのでした。

■「どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?」中島義道■ 2008.12.17

41prslxjn6l_2すこし早く着いてしまった東京駅、新幹線の時刻までの十五分を、駅構内の書店で過ごした。

文庫のコーナーで、迷わず手に取ったのがこれ。 「どうせ死んでしまうのに、なぜいま死んではいけないのか?」。

偏愛する中島せんせいの未読の著書を文庫で発見しただけでも嬉しいのに、カバーがポール・デルボー、大好きな画家、そして「解説」が中村うさぎ。

好きな人三人がいる本なんて、そんなにあるものではない。

帯を取って読んでいて、なくしてしまったけれど、そこにはたしか、こうあった。

「中島先生、私はあなたに救われました」中村うさぎ

私が好きな作家が私の好きな作家の作品を読んで私と同じように感じている。ちょっとした感動があった。

今回、とても共鳴したのは「組織に埋没してはならない」というテーマ。

中島せんせいは、イチローをはじめとする日本人が大リーグなんかで活躍しているのを「わがことのように」喜ぶ光景に違和感を感じる。郷土意識もゼロ。母校への愛着もナシ。

私もまさにそうなので、なんだか安心してしまった。生まれた中央区が、育った伊勢崎市が、そして今いる軽井沢が、誰かに貶められても、なんにも感じない。母校がどうなっているかなんてぜんぜん興味がない。

「○○出身のひとは・・・」という、国や、地域や、学校で、人を分類しようとするやり方にはいつも苛々する。オリンピックもサッカーも「日本人」という立場では盛り上がれない。

今まで、意識的に、組織を愛する自分を演じてみたことはあったけれど、長くは続かなかった。自分のことを紹介する文章(いわゆるプロフィール)で、出身校について書いていないことを、しばしば問われるけれど、それは、 「それは自分の人生のおいて、さほど重要ではないし、今の私を表現する上で、まったく重要ではないと思うからです」。

もちろん、環境が人に与えるもの、組織の恩恵にあずかっているいくつかの場面、そういうのがあるのは重々承知の上で、それでもやはり「個」なんです! という頑固さをずっと持っていたいと思う、朝。

■■青参道アートフェア、表現の、熱い場■■ 2008.11.4

_ri_青参道……青山通りと表参道を結ぶ通りの名。

響きと、字が、私の好み。

アートフェアに協賛している「H.P.FRANCE(アッシュ・ペー・フランス)」の方との出会いがあり、足を運んだ。


現代アート、今を生きるアート。

ここのところ遠ざかっていたので、それらに触れた時、自分のなかにどんな反応が起こるのか、そういう意味で、すこし緊張していた。

スパイラルからスタートして、丁寧にご案内していただきながら、私は、実はかなり胸が熱かった。 

ひと周りし終わって、何か気のきいたことを言いたかったけれど、うまく言えなくてもどかしかった。

その夜、夫に「青参道はどうだった?」と聞かれて、私は言った

「表現したいという欲望と、それを受け取りたいという欲望があった、そんな場だった。日本も、東京も、アンダーフォーティーたちも、まだまだすてたもんじゃない、と思えて、なんだかすごく嬉しかった」

ここで「アンダーフォーティー」という言葉を出したのは、スパイラルに展示されていた作品は、アンダーフォーティーのキュレターたちが選んだもの、というところからきている。

ご案内くださった方は、ぴちぴちのアンダーフォーティー。

すねた私は、ずっと「アンダーフォーティー」にこだわりつづけたのだった。

ところで、私は数年前から「H.P.FRANCE(アッシュ・ペー・フランス)」に注目していた(と威張る)。ふだん、ほとんど指輪をいうものをしないのに、つい、購入してしまったあの日から。

 

 

 

 

■■六本木のピカソ展、青の時代の反応■■ 2008.11.11

081109_123201大好きなパリ、マレ地区のピカソ美術館。


小説『女神 ミューズ』のトップシーンにも使った、ほんとうに好きな美術館。

その美術館が改装されるため、収蔵作品が世界を巡る。


六本木のサントリー美術館と新国立美術館の二つの会場で、ピカソ。


私は、いつもいろんなところで言っているけれど、「あのときあの場所で観た絵」というのに、異常なほどに執着していて、だから、「あの名画が日本で観られる!」に、興味がない。


現地で観たことのある絵ならばもちろん、まだ本物を観たことがなくても、いずれ、その美術館を訪れて、そこで観たい、と思う。


それなのに、サントリー美術館を訪れたのは、ピカソの青の自画像に、今の自分がどのように反応するのか、知りたかったからだ。


ピカソの青の時代が、私は好きなのではない。目が離せないのだ。

長く精力的に生きたピカソが、一番、死と近いところにいた季節のように思えて、胸が痛くなる。


明るくオープン。

をキーワードにしたシーズンを楽しんでいる自分に、青の自画像をつきつけてみたい。

という、誰かさんたちに言わせれば、「出た出た、自己愛ばりばり」心理となるのだろう。


結果は、やはり、青の自画像は半端じゃないエナジーを持っている、ということを再確認。


それにしても、なんて多くの人が訪れていることだろう。

私はミュージアムショップに座って『彼女はなぜ愛され、描かれたのか~大人のための恋愛美術館』を売りたい、と心から思った。

と、書いてからネットを検索したら、10万人突破、の記事発見。

 

■■トニー・レオンの言葉■■ 2008.11.13

Imagesduc39vs0自分のやった役柄からは永遠に離れることができないし、その悲しみから逃れたことはない


ウエブの記事、胸にずんと響いて、ノートに書きとめた。


客観的にみたスケールはぜんぜん小さいけれど、私の心の奥にいつもある小さな覚悟みたいなものと共鳴したように思った。


すべてを帳消しにしたい、という衝動がつきあげてくることが、ときどき、シーズンによっては頻繁に、あるけれど、やはりその「悲しみ」を引き受けることは、いくら私がへなちょこだとはいえ、自分自身の人生における礼儀なのだと心得たい。


軽井沢は朝、車が凍るようになった。最高気温も一桁の日が多くなっている。そして落葉がたえず舞っている。美しい。

■「快楽主義の哲学」 澁澤龍彦■ 2008.11.14

0800030000082_2***

道徳なんて、まったく相対的なもので、その国や地方の風俗や習慣から生じたものであり、もっと簡単にいってしまえば、偏見の結果にほかならないのです。

「偏見をなくせ。」ということは、「道徳をなくせ。」ということと、ほとんど同じです。道徳教育とは、偏見教育のことです

***

ということを重々承知した上で、道徳うんぬんを論じないと、道徳というものは、人間関係をゆがませるもの、あるいは野蛮な圧力以外の、なにものでもなくなる。


ということを重々承知しているひとは、安易に、あるいは無邪気に、あるいは愚鈍に、「道徳」という言葉を使わない。


ぜんぜん自覚のないひとが、好んで使う。


さいきんつくづく思う。日本の場合、道徳という言葉の対極にあるのは「ユーモア」ではないかと。


ふたたび、澁澤龍彦。

***
心理学的な分析によると、ユーモアは、外界からの苦悩をおしつけられることを拒否し、自我を優越的な地位に引きあげて、自分のまわりに厚い防御の壁を築き、(略)

こういう心理的な操作を自由になしうる人が、ユーモリストと呼ばれます。

ユーモリストは、人生の失敗にくじけない、強い柔軟な精神をもった快楽主義者です

***

やっぱり美しいのはモラリストではなく、ユーモリスト。

ユーモリストのほうが、難易度、くらべものにならないほど高くて、だけど、私は好き。

■■ハービー・山口さんと過去■■ 2008.11.18

Kouen_ハービー山口さんの、トークショーに参加した。

「写真家ハービー山口 写真を語る 人と向き合う撮影」。ミッドタウンの「フジフィルム スクエア」、定員100名の会場は満席だった。


一週間前、ミッドタウンに出かけたとき、一緒に行ったひとがフジフィルムスクエアに寄りたいと言ったので、お付き合いし、そこで、ハービーさんの写真と、一週間後のトークショーの案内を見たのだ。


同日、銀座で、偶然、懐かしいひとに10年ぶりに再会、会食の約束を交わしたばかりだった。

ハービーさんとも、ざっと10年。

しかも、お二人とは以前に同じ場所で、トークショーを開催したことがあり、すこし、こわくなるほどの、出来事だった。


さて。トークショー中、私はハービーさんとの出会いからはじまって、まったく接点を持たなかった10年間に、想いをめぐらせていた。


新宿のロフトプラスワンで、ハービーさんをゲストにお呼びし、「モンパルナスのキキ」をテーマに「写真家とミューズ」についてのトークショーをしたのは、娘が生れる前だから30歳か31歳。


そもそもハービーさんと出会ったのは、そうだ、ハービーさんがJ―WAVEで番組を持っていて、そこにゲストとして呼ばれたのだった。

「フラウ」の連載を見て私に声をかけてくれたのは、当時番組を作っていた女性、Iさん。

あ! そうだ、銀座で10年ぶりに再会したひとを、引き合わせてくれたのも、Iさんだった。

Iさん、元気にお過ごしだろうか。4年前に一度電話でお話したけれど、その後は会っていない。


それにしても、と私は小さな感動なしで、ハービーさんを見ることができなかった。


この10年間、ハービーさんがどのような人生を歩まれてきたのか、もちろん10年前も、暖色のグラデーションを背景にしたような佇まいではあったけれど、さらにそれに磨きをかけた、というか、なんというか、とても、あたたかだった。


そのことに、私は、人間の希望を見て、胸が熱くなった。

と、こんなふうに回想していると、おばあちゃんみたいなので、この辺でやめよう。

写真は10年前、「あのころ」の私。世田谷の馬事公苑で。なぜかいつもどこかの壁に貼ってある一枚。

■「偶然のチカラ」 植島啓司■ 2008.11.21

Gu「未来が見えないとき、いったいどうしたらいいのか」


「そんなときには、しゃにむに自分の意志を貫こうとしないことが肝心だということ、「自分で選択するべからず」ということである。


困難なことにぶちあたったとき、必要以上に自分の力に頼るのがもっとも具合の悪いことで、見えてきた状況に従って動けばいいのである


そして物事の是非を判断せず、「世の中にはどうにもならないこともある」と一歩引いて考えたい。


世の中には思うようにいくことのほうが少ないのだから」


『性愛奥義』」でお世話になっている(?)植島氏の本。

幸福のための7つの新法則、などとあるが、大量生産されているハウツー本では、まったくなく、奥深く、ミステリアスで、ユーモアに満ちている。

そのため、それを理解できない頭を持ったものには、難しい。

すらっと読めてしまうけれど、難しい本なのだと思う。

私は半分も理解できていない。


それでも、本書の紹介文、


「人生に起こるさまざまな事柄――それらは、偶然のようにもみえ、一方では運命とも思える。不確実な現世のなかで、身に降り掛かる幸不幸を、私たちはどう考えるべきなのだろう


に引き寄せられて購入した私は、そういうシーズンにいるということだから、植島氏の言葉が身に染みた。


「選択」しすぎて、すこし疲れたときには、植島氏の「自分で選択するべからず」を人生に、取り入れて、やりすごすことも、それは「謙虚」という意味において、大切なことなのかもしれない

  

軽井沢、初雪も降って、氷点下の朝が続いている。執筆こもりモードも続いている。からだがかちかちになるので、フラメンコでも踊ろうと、DVDつきの本を購入してみた。昨日届いたばかり。

■人生の衛生術 「不道徳教育講座」 三島由紀夫■2008.11.25

Imagesk92m7wsgお節介は人生の衛生術の一つです。われわれは時々、人の思惑などかまわず、これを行使する必要がある。(略)

お節介焼きには、一つの長所があって、「人をいやがらせて、自らたのしむ」ことができ、しかも万古不易の正義感に乗っかって、それを安全に行使することができるのです

人をいつもいやがらせて、自分は少しも傷つかないという人の人生は永遠にバラ色です


痛快な皮肉にみちた、お節介についての文章を今回、拾ってしまったのは、最近、知人(年下の、仕事関係で出会った、かわいいひと)から聞いた話が原因だろう。


知人は、ある年配の女性からの「親切」に困惑しているのだそうだ。

「あなたの味方だから言うんだけど……、から始まる一連の、人生教訓に満ちたアドバイスを聞きながらわたしは思ったの。これは実のところ、彼女の思想のおしつけに過ぎなくて、彼女はわたしのことが気に入らないのだと思う。このところだんだんひどくなってゆくのよ。彼女、子育てもひとだんらくして、どうも暇らしいの。自分の子育てに自信をもっていて、わたしが仕事を優先しすぎる、それでは子どもがかわいそうだ、なんて本気で言うのよ。どうしたらいいでしょう?」


「暇な女性」。

もう、これだけでかなり手ごわい。
お節介……、いいえ、「親切」に注げるエナジーの量が、私たちとはくらべものにならないからだ。


私はなるべく、自分のことを気に入らないだろうと思う人々とは接触しないように気をつけている。もともと人間不信なところがあるから、気の合う人、信用できる人に、もし出会えたならとってもラッキー。

たいていは、バツ、それが当然と思っていれば、病に倒れる率を減らすことができる。


私は年下の知人に、そのようにしか言うことができなかった。

昨日、軽井沢に雪が積もった。車のタイヤを交換していないので、朝出かけるのはさすがに恐く、夫を駅まで送ることができなかったので、タクシーを呼んだ。

■「快楽は悪か」 植島啓司■ 2008.11.27

51k6r42qvgl子どものころからの問題は全部、世界に順応して幸せに暮らすことが不可能なことが原因だ。

アウトサイダーの感覚だよ。

だれかがドラッグや酒に手を出すとしたら、それで少しは順応できるからだ。

だから誘惑に負けるんだ。

酒は壜入りのドラッグだ。

 

自分を落ち着かせてくれるものは何でも常習の危険がある。

セックス、食物、仕事、成功、何をとっても、それで安定できれば常用するようになり、依存して、人生が破滅することもある


これは俳優のアンソニー・ホプキンズの言葉。

植島氏は次のように続ける。


「この短い言葉のなかには重要な真実が隠されている。

われわれは実際、何か大きな問題が起こらないと直視しようとしないが、意外と世界と順応するのに日々骨を折っているということ


私だけではないんだ、と、自分に言い聞かせなければ、すこし息苦しい今日このごろ。

そして私にとっての「世界と順応するための『何か』」とは何か?

そんなことを考えていたら、以前に、ある人から、「あなたは、自分とはもっとも遠いところにあると思っているでしょうけれど、ワーカホリック(仕事中毒)です」と断言されたことを思い出した。


私にとっての「何か」とは、仕事なのかもしれない。

それにしても、「常識」というものに、疑問符を投げかけ続ける毎日を送っていると、周囲を見渡して、その居心地の悪さに愕然とする。