■2009年■

■■人生のクライマックスという言葉を想う■■ 2009.12.30

Dscn1768_2_22009年も終わろうとしている今夜、一年分のブログと、あとは一年分のノートのメモなどを眺めて、私の2009年はあらゆる意味を含んで、やはり「かるいざわ朗読座」に集約されるのだろう、と考えている。


私の作品世界を好きだと言ってくださる方に導かれて支えられて脚本をつくり、それを天才たちが表現してくださる。



2009
年の1121日は、私の人生においていいようもない重要な日だった。

拍手のなか、ステージにあがり挨拶をし、舞台裏で涙とともに天才たちを抱擁し、私は幸せのエクスタシーにどうにかなってしまいそうだった。


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年の人生の、いくつかのシーズンは死を想わないではいられないほどつらい日々があった。

ようやく見つけた進むべき道を、見失いそうになったことも何度もあった。


それでもなんとか生きのびて書き続けて、そしてあの日があったのだと思う。


出逢いがすべてなのだ。


けれど出逢うためには、出逢いに続く道を歩き続けなければならない。

だから歩き続ける。

ともに歩くひとがいるときは手をつないで、ときどき駆け足になりながら道をゆき、ともに歩くひとがいないときには、孤独につぶれそうになりながらも、信じた道を進むしかない。


私のブログを読んでくださっている親愛なるみなさま。

どのような一年でしたか。
みなさまの2009年、クライマックスという言葉から連想される瞬間はどのようなときでしたか。


あたたかなメールをありがとうございます。

作品についてのあたたかな言葉に、いったいどれほど励まされたことでしょうか。ほんとうに嬉しく受けとっています。

■そういう瞬間 「本格小説」 水村美苗■ 2009.12.25

6170me0181l「ただ人間には自分が知っている以上のことを知らずして知ってしまう瞬間があり、あの瞬間がそういう瞬間だったのにちがいありません」


やっと見つけた。

さいきん「本格小説」のことが話題にのぼって、けれどぶ厚い上下巻で私はそれを図書館で借りて読んだから手元になく、でもすごく印象深い一文があったこととそれをノートに記したことを思い出し、どうしてもその一文を正しく知りたくなった。

 
いつ読んだのかさっぱりわからないから、かたっぱしから過去のノートのページを繰った。


そうやっていると本来の目的をそれて、落書きをしたときの心情をなつかしく思い出したり、ヘンなメモにいやあな気分になったり、あっという間に時間が経過する。


ようやく目的の一文を見つけた。そうそう、これ。


「人間には自分が知っている以上のことを知らずして知ってしまう瞬間があり」、

これをときどき、背筋がすうっと凍るような感覚とともに思い出すことがあるのだった。


それは「知ってしまう瞬間」を経験したときだったり、「あ、知ってしまいそうだ」という予感にうちふるえて、目を覆ったり耳をふさいだりするときに、思い出す。


以前は知ることができるなら全部知りたい、という気持ちが強かったけれど、さいきんは違う。


知らないほうが幸福なままいられるのなら、そのままで。と思うことが多くなったように思う。弱っているのだろうか。それとも。


今日は世のなかはクリスマス。

イエスの存在を信じ、信じたい人間を愛しく思う、と言ったクリスチャンの友を思う。

体調もよいので、夜は娘とふたりで軽井沢高原教会に出かけて美しいイルミネーションを見ようか、と考えています。

■「シンプルな情熱」 アニー・エルノー■ 2009.12.21

41y5aa0dprl「私には思えた。

ものを書く行為は、まさにこれ、性行為のシーンから受けるこの感じ、この不安とこの驚愕、つまり、道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態へ向かうべきなのだろうと」


何度も読み返す本のグループに入っている一冊。


恋をするということはこういうことです。


それだけが語られていて、見事だと思う。

ただ、この作者が無名だったらここまで評価されたのかな、と疑問は残る。

換言すればそれほどまでに、尖っていなくて読者を選ばない小説ということになる。私は好きだけど。


冒頭の一文は最初に出てくる。

語り手の女性がポルノ映像を観て、そのあとで物を書く行為につなげる。

よくわかる。
「道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態」
のなかでなければ書けないから、よくわかる。


そしてその状態のなかに入りこんで

「ああ、もう飽きた、いったん出よう」

と自らが思うまで入りこめたら、こんなに幸せなことはない。

書くという行為に焦点を絞って考えれば。


その状態に向かうというエナジーは、実は他者は関係なくて、日常のあれこれも関係なくて、問題は自分自身なのであって、だから日々格闘しているのだった。


今日の軽井沢は晴れていて、でも最高気温がマイナス一度なのだそうです。ぬくぬくとした部屋で、これから「道徳的判断が一時的に宙吊りになるようなひとつの状態」へ入りこんでみようかと企んでいます。

■■あの日の、ピアソラ■■ 2009.12.11

Pi音楽との出逢いにも、たしかに「とき」があって、なんとなしに流していた曲が突如として特別になる瞬間というのが、ある。

あの日のピアソラ。

アディオス・ノニーノからムムキ、ブエノスアイレスの夏、チンチン……、そしてリベル・タンゴで、かんぜんに溺れた。ソファにしがみついてふるえをとめないとどうしようもないほどだった。

ずっと前にこのCDをプレゼントしてくださった殿方。

そのときも御礼は伝えたけれど、いま、それとは別の意味を込めて、深くありがとうと伝えたい。いつも貴方は私に必要なものをくださいます。

思い立って、中山可穂の「サイゴン・タンゴ・カフェ」を読み返した。
そしてまた胸をうたれた。
帯には「優雅にタンゴを踊りながら、このつらい世界を生きのびてゆこう」とある。

同じ種類のひとでなければ、出てこない言葉だ。私の場合は「ピアソラを聴きながら、このつらい世界を生きのびてゆこう」になるかな。

外は静かに雪が降っています。

なんちゃって暖炉のペレットストーブの炎が恋しくなります。炎があるとまた別のものが恋しくなります。そういう季節です。

■スワーンベリの世界 「女の楽園」 澁澤龍彦■ 2009.12.7

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エロティシズムを、人間性の局限された一部分だとしか考えられない者、不当に蔑視し隠蔽して、これを道徳その他の人間精神の働きの下位に立たせようとする者には、ついにスワーンベリの魅惑の世界に参入することは不可能であろう


このところすっかり溺れている、スワーンベリの画集のなかから。


久しぶりに澁澤龍彦に酔った。

そして、やはり自分が信じるものは、周囲からどんな視線を浴びせられようとも、信じ、そして断言し、伝え続けなければならないのだと、あらためて気づかされた。


それにしてもスワーンベリの絵画世界は、懐かしいほどに泣けてくるほどにエロティックで、そして愛に満ち満ちている。


そのような「魅惑の世界に参入」できない人生なら、私はいらない。

私はスワーンベリの楽園でいつでも憩い、戯れる精神を持ち続けたい。

それがどんなに世のなかの流れに合っていなくても。

楽園に集う人々がひとり、またひとりと減っていって、ついには自分ひとりだけになったとしても、私はそこにゆくだろう。

ゆけるひとでありたい。


今日はずっと家で、そんなことに思いを馳せながら過ごした。原稿をチェックしながら、創作途中の物語に手を入れながら、スワーンベリの絵画がやけに目のまえにちらつく一日。

■■禁断の舞台から10日■■ 2009.12.1

Yamaguchi「愛は禁断を超えて」から10日が経った。

その間ブログは更新しないし、もちろん、右バナーの「かるいざわ朗読座」も更新はない。きっと気を失っているのに違いない。

と、友人知人たちから安否を尋ねるメールが届く。


ある意味では気を失っているけれど(だから禁断の舞台のことを書けない)、新刊の仕事もし、きらびやかな銀座でトークショーもした。


あまりにも強烈な体験だったから、まだ書けないのです。 

だって、まだ頭に、心に、からだに、あの、うそのような笛の音がまとわりつき、そして増山江威子の声が、からだじゅうにこだまして、私をとらえて離さないのです。 

■■「VOCE」、ココ・シャネルの“嫌悪力”☆■■2009.11.02

519sizhfb3lいま発売中の「2009 VOCE(ボーチェ)12月号」(講談社)、に記事が掲載されています。ぜひ、ご購入ください。どうしても立ち読みしちゃうという方にはこっそり、P267・・・。

でも、これは購入の価値あります。

特集のテーマは「叶える力」。
オードリ・ヘプバーン、白洲正子、マイケル・ジャクソン、田中絹代、ロマーヌ・ボーランジェ、ジュルジュ・サンド、ビリー・ホリデイ、宇野千代、そして、なんと! ガラ・ダリ……などなど、あちらこちらのセレブたちが登場しているのですから!

「ココ・シャネルの嫌悪力」という見開き2ページの記事は、とってもスタイリッシュ」、キレのよい文章に、鋭いデザインです。
ライターは小川聖子さんという、とっても可愛らしくもエナジーあふれる若いぴちぴちな女性で、私の本を、深く読み込んでいらしてくださったので、話もはずみました。

私も、そんなに多くはないけれど、インタビューなどを受ける機会があります。

そのとき、「ああ、このひと、ちゃんと読んでくださっていないのだな」と思うと、やはり気持は萎えるものです。

感想すらおっしゃらない方も多く、なかには、なんと「ごめんなさい、読んでいないんですけどー」と堂々とおっしゃる方もいらして、そういう方に出会うと、その方の調子に合わせて「ごめんなさい、帰りたいんですけどー」などと言いたくなります。

愚痴をいうと、こんなに長くなってしまいますが、小川さんは、そういったなかにあって、際立っておいででした。
そして、担当編集者のぴちぴちに若い殿方、福田秀芳さん。

彼も、なにかこう、とっても情熱がおありでした。

よい誌面をつくりたい、自らが信ずるものを発信したい、そのためにはエナジーを惜しまない方、といった印象を強く持ちました。
おふたりの、瑞々しくも、絶対に軽視できない情熱にふれて、私は胸が熱くなりました。

■女の髪「恋愛100の法則」 なかにし礼■ 2009.11.16

51jxagg2nkl髪を短くしてから、周囲の感想はさまざまで、とても面白い。

先日は久しぶりに会ったひとから「失恋でもしたの?」と聞かれて笑ってしまった。

聞いたひとも、「いまどき、そんなこと言う人いないよね」と言って照れ笑いしていた。


ふと、なかにし礼が「髪」について書いていたことを思い出して、本棚を探した。

「恋愛100の法則」、これ、とっても面白い。

「時には映画のように――口説く」と「愛人学」のふたつのシリーズが合体したようなつくりになっていて、「髪」は「愛人学」のなかのひとつ。


髪は女の命だという。ならば、その命を俺にくれ、と言ってみたくなるのが男の恋心というものである。女の髪が美しければ美しいほど、それを犯してみたくなる。

そういうサディスティックな欲望もまたどんな男の中にも蟠っているものだ。

「俺のために、ショートカットにしてくれ」と言って、女を困らせたことが僕だって何度かある。

切ってくれた女を僕はこの上なく大切にしたが、切ってくれなかった女への愛情はその場でしぼみ始めた」


エディット・ピアフの『愛の讃歌』という歌の中の「あなたがそう希むなら、この髪をブロンドに染めもします」という感動的な一節は女の恋愛心理の永遠の真実である、と男たちは信じている」


「男のために、美しい自慢の髪をバッサリ切ってみせる時、女の値打ちはぐんと上がる。また、これくらいのことができないようじゃ、幸せになんかなれないだろうな」


と、このように、ある種の人々からは猛烈な反感を買いそうなことを、言っている。

髪が女の命というならば、その命を俺にくれ。


……これが男の恋心というならば、男の恋心とは、なんて幼いのだろう、と私でさえ思う。

そして、なかにし礼の、女の愛し方が自分の好みに合うかといえば、そうではない。

けれど、好きな、何かがある。

何だろう、このなかにある、何が私は好きなのだろう。

思考をうろうろとさせた結果、やはり情念という言葉が出てくる。

熱くて重くてうっとうしくて、におうほどの、想い。


それを内包した男たちが、私はたまらなく好きなのだ。

そしてこの種の男たちが、この先、どんどん減ってゆくようで、とっても淋しい。


軽井沢は一枚また一枚と、秋のベールを脱いで、もうすぐです。もうすぐ美しい冬のヌードの季節が、訪れます。


そんな季節、失われつつある情念の男たちへの愛もこめました、「愛は禁断を超えて」。今週末21日です。ぜひみなさま、いらしてくださいね。

■■なんども恋におちる恋■■ 2009.10.21

51dk81dbqyl昨夜は頭が冴えて落ち着かなく、少しだけブランデーを、と思ったら久しぶりにくらくらするまで飲んでしまった。


酔いは妙なことをさせるから、夜遅いというのに昔の原稿やらノートやらの整理をはじめ、過去を半分くらい破棄した。


その昔のノートに「決定的に恋におちた」という言葉があって、なんだそれは、と(自分で書いた言葉なのに)つっこみをいれつつも、(自分で書いた文章なのに)面白く読んだ。


それは、あるマンションの屋上のプールでの出来事。

何人かで騒いでいて、私は水に入らずに日焼け止めをぬりたくり、大きなサングラス、大きな帽子、さらにパラソルの下で完全に紫外線から身を守った状態で、はしゃぐみんなの様子を見ていた。

すると、そのとき、出会って間もない恋の相手が私の名を呼んだ。
そして水のなかからジャンプしながら、私に手を振った。

強い陽射しと彼のウエーブがかった髪、そして百パーセントの笑顔が、瞬間、私の心にうそのように強烈に焼きついた。

そのとき、そう、今でもよく覚えている、「いま、私、このひとに、ほんとうに恋をした」と感じたのだった。

恋をして、そのひとを知り始めてしばらくしてから、それでも「ああ、私、いま、恋をした」と感じる瞬間がある。

それは私がノートに書きつけたように「決定的に恋におちた」瞬間といってもいいかもしれない。


そんなことに想いをめぐらせると、ああ、あの映画のあのシーンもそうなんだ、といくつか思い浮かぶ。


私にとっての特別なひと、アナイス・ニンの日記を原作とした映画「ヘンリー&ジューン」のなかにもあった。


映画館でぼろぼろと涙を流すヘンリー・ミラー。ふだんの彼と異なる顔。


それを見たアナイス・ニンは、そのとき彼の魂、感受性というものに鋭利にふれたのではなかったか。

あのとき、アナイスは、決定的に恋におちたのだと思う


そして、特別な相手との恋は(もちろんどんな恋でもいつかは終わりがくるのだけれど)、その恋愛中、なんどもなんども、決定的な瞬間を経験する、そして関係が深まってゆく。


軽井沢は感傷的な季節になりました。木々の色彩が、いいよ、もう夏も初秋も通り過ぎたことだし、自分のなかに入り込んでいいよ、と許可してくれているように、感じます。

■■プロフィールの写真■■ 2009.9.27

110「ココ・シャネルという生き方」関連で、取材を受けることが増えて、そのためのプロフィール写真が必要となった。


もちろん、運転免許証ではないのだから、数年前のだっていいのだけれど、それらは髪も長いし顔も(今より)若いし、なんとなく気がひけて、新たに写真を撮ることにした。


「ほうれいせんがくっきりなのはいやだからね」「なるべく顔がどーんとうつらないようなかんじで」「左側からね」「肩から腕にかけてのライン、大丈夫?」


うっとうしい注文を飛ばしながらの撮影となる。

返ってくる言葉は、

「もう、これはどうしようもないよ」「これ以上とばすと、顔がまっしろになるよ」「せいけいしてきたら」等々。


いくつかピックアップして、それでも「どれもだめだ」と嘆く私に、「こういう顔してるんだよ」と声がかかる。

そして畳みかけるように、「実際に会ったとき、うわあ、あの写真はめちゃくちゃ修正いれてるな! と思われるのと、写真よりいいじゃん! と思われるの、どっちがいい?」という意味不明な質問が。


あらためて、女性誌を広げて、いろいろなひとのプロフィール写真を見る。

だいたいが、カメラ目線でにこやかだったり、クールに決めていたり、している。……うーん。

モデルじゃないんだし、そんなにこだわることないよ。

とほうぼうで言われる。けれど、そのたびに思う。

ヘアメイクやファッションと同じ。

自分をどう見せたいか、どう見られたいか、という問題なのだ。

それは美醜とは違う。そう。実物より「美」くしく見せたい、とはあまり思わない(ほうれいせん云々も、もうしょうがないとは思っている)。

じっさい、「わざとヘンにしてるの?」という質問を受けることも多い。

じゃあ、なんなのか。


はい。たぶん、これは私にとって、哲学的な問題なのです。笑わないでください。そこのあなた。


私は
、私の人生のそのシーズンを象徴するような写真が欲しい。そこからたちのぼる空気感で、それが感じ取れるような、そんな写真が欲しい

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