■2010年■

■■それぞれのサガン、共感するヒロインは■■2010.12.3

51w7wpgs7l_3『サガンという生き方』を出版したことによる、出版前には想像しなかった喜びのひとつは、サガンの小説について語ることができるひとたちを発見できたことだ。

3040代の女性たちで、それぞれの思い入れがあり、それについて語る彼女たちは、それぞれの思い出を大切に抱えていてとても美しい。

「路子さんは、特にどれが好きですか?」

という質問も当然受ける。


エッセイは除き小説だけに限っていえば、『心の青あざ』『熱い恋』『ある微笑』『ブラームスはお好き』『愛は束縛』『一年ののち』……、だめ、ほとんどになってしまう。


もっとも自分自身と重ねて読めたのは、はじめて読んだときの年齢も影響しているけれど、『ある微笑』のドミニックと『熱い恋』のリュシール。


とくにいまはリュシールに共感する。


『サガンという生き方』では、『熱い恋』の次の部分を引用した。


「あなたは相変わらずいつものように黒い髪と灰色の眼をしていますね。とても美しい……」

リュシールは、人が自分の髪や眼の色について、容姿についてすらもしゃべるのをもう長いあいだ聞かなかったことに気づいた。


「気づいた」。


それからどうするかで人生の色彩が決定する。

それぞれの色に染まる。

一度しかない、しかも短いかもしれない人生。

サガンがいうように「幸福なときが正しくて不幸なときは間違っている」のであるならば、できるかぎり正しいところと近いところにいたい。


ところがかなしいことに、ひとは、ときどき、自分が不幸な状態であることに気づかない。認めない。許さない。


それは愚かさのせいではなく、自己防衛本能のせい。


リュシールは、「自分自身を偽る」ことをしながら生きることができない女性だった。彼女は他の多くの女性たちがしない選択をする。


外は雨。雪ではなく。変に気温が高い金曜日。今週は一度もメイクをしなかった。久しぶりにきれいになりたい気分。

■■アナイスの印刷機と「最後の10年」■■2010.12.2

Anaisp私にとっての最後の10年がいつなのか、もう始まっているのか、それはわからない。

サガンが言う、「死は人間のあらゆる行動のいい分母です」に私も賛同するから、頻繁に死を想ってはいる。意識してはいる。

そしてこのところは、若いころのように、それを極端におそれることはなくなった。唯一、娘の存在だけがつよい心残りとなるだろうけれど。

ささいな不調とはいえ、寝込んでいると、死のこと、これから一番やりたいこと、限られている時間のなかでしたいこと、そんなことをつらつらと考える。

それでまたアナイスのことを考えていたのだけれど、20代のころから作家を志して書き続けていたアナイスは、ヘンリー・ミラーはじめ、後に超有名となる男たちを助けながら、インスパイアしながら、自身も執筆に励んだ。
けれど、彼女の独自の作風はなかなか認められない、本が出ない。

もちろん絶望するときもあった。
それでもつねにアナイスの虚弱体質のなかにある精神の強さが勝った。

アナイスは30代のはじめ、印刷機を購入、自らの作品を手作り出版した。

この事実。

20代の終わりころにようやく文章を書き始め、作家を志し、認められず、苦しい日々を送っていた私をどれほど強く励ましたことか。

何度も諦めようとし、けれど土壇場でアナイスの印刷機を想った。

そして自分に言い聞かせた。とにかく絶望しないで、と。

アナイスは自費出版どころか、自分で印刷機を購入して、自分の作品を出版した。
そこまでして世に出したい作品をあなたは書いたのか。
書いて、そのうえで絶望しているのか。
どうか。

そう何度自分を叱咤したことか。

アナイスのこの行動こそ、情熱と呼ぶにふさわしい。そしてこんなアナイスが私は大好き。

それでもアナイスの作品は多くの人に認められなかった。

はじめて手作りの作品を出版してからおよそ10年後、ようやく著名な批評家から好評を得るけれど、それで彼女の名が広く知られたわけではなく、アナイスが著名な作家の仲間入りをするには、さらに20年もの歳月が必要だった。

……20年!

自分で印刷をして出版してからは、30年!

きっかけは1966年(私が生まれた年だ)、アナイスの「日記」の出版だった。
これが評判になった。

そして1977年に亡くなるまでの10年間は、アナイスにとって長年の、ほんとうに長年の、夢がかなった薔薇色の10年だった。

ついに作家として世に認められた。創作活動が花開き、実った。
彼女の一生を経済的に支え続け、定年を迎えた夫ヒューゴーとの生活を、今度は彼女が支えられるようになった。

どれほど嬉しかったことだろう。
どれほど、「ああ、諦めないで続けてきてよかった」と思っただろう。

本が出ないころ、よくつぶやいた「やめるならやめればいい、でも、やめたら、それでピリオド」という単純な真実を思い出した。

ほんとうに色々なことを考える。
44年の人生でこれだけ愛し愛され、どうしてもこれだけは残してから死にたい、と思った本を出して、運命がそのように動くなら、それほど思い残すことはないように思う。

けっして暗い意味で言っているのではない。
けれど、私は欲張りだから、もっともっと愛し愛されたい。もっともっとよい作品を書きたい。だから絶望しちゃだめ。

アナイスだって60代半ばからの10年だった、と思えばマイナスの焦りもなくなる。

毎日書くべきことを書き、すべきことをして、興味あることに身を投じ、自分のなかにある小さな炎を守り続けたなら、きっと薔薇色のシーズンがまたくる。そう信じたい。

自分にとっての最後の10年がいつなのか、もう始まっているのか、それはわからないけれど。

■■さびしい、について■■2010.12.1

101116_211402_2_2このスケジュールだときっと、そうなるだろうな。と思っていたらやっぱり臥せってしまった。

日曜日から3日間ベッドで過ごしている。

ぜんぜん力が入らなくて、風邪までウエルカム。

普通の風邪薬は飲めない状態だそうで、処方された薬の説明を読むと「老人や虚弱な方の……」とあり、それだけでがくーっと落ち込む。


血圧を測った先生の「よくここまでひとりで来られたね」という言葉にじわりと涙が浮かぶ。


そうとう弱っているなあ、と客観。

甘えついでに言ってしまう。

「先生、わたし、……入院したい……」。

先生はひたすら優しい。
「あなたは本当に自分に甘いんだから」とか「不健康な女は嫌いだ」とか「いつになったら自己管理ができるようになるんですか」とはけっして言わない。

「そうだね、その一歩手前だから、今日は絶対安静よ。なんとか気をつけて運転して帰ってすぐに横になってね」。


家に戻るとポストに郵便物がたまっていて、そのなかに「家事代行サービス」のチラシが。

このてのものに、これほどひきつけられたことはない。

電話に手がのびる。けれどやっぱりだめ。他人が家のなかに入るストレスのほうが私にはきつい。


原稿のことが気になるけれど、ここまでダウンすると諦めが圧勝。

それでもベッドのなかで資料を読んでしまうけれど。

ところで。

仕事を諦めている私には、なにか隙があるらしい。


隙というとマイナスの意味になるかな、余裕、あるいは許容。


私のことを心配しながらも娘がなんだか嬉しそうにベッドに来る。

そして色々な話をしてくれる。

そうかー、さいきん忙しくて、こういう「どうでもいい話」をしていなかったな、と思う。


連絡事項などではなく、「どうでもいい話」のなかに、あたたかないのちがあるというのに、忘れていた。


その話の流れで娘が懐かしい質問をし始めた。

さいきん、これ、していなかったでしょ、と言って。


「この一週間で一番嬉しかったことは?」
「一番悲しかったことは?」

「一番怒ったことは?」


聞かれるたびに、いくつかのイメージがさっと浮かぶ。

すべてを正直には言えない。

たまに二番目を答えている。

最後に、


「一番淋しかったことは?」


と訊ねられて、考えこんでしまった。

さびしい。寂しい。淋しい


私はそのときの理由によって三つの表現を使い分けているのだけれど、この形容詞は「悲しい」「嬉しい」などとは違って、嬉しかったこと、悲しかったこと、といった使い方は似合わないように思った。

なんというか、それはたとえば「美しい」に似ている。そういう感覚。


辞書をひいてみる。30年近く愛用している「新明解国語辞典」。

さびしい

①自分と心の通いあうものがなくて満足できない状態だ。

②社会から隔絶されたような状態で、心細くなる感じだ。

③あればいいと思うものがなくて、満ち足りない感じだ。


たいてい私は③の意味で「さびしい」を使っている。


結局、質問した娘には


「さびしいって、とてもデリケートな言葉だと思う。淋しかったこと、ってないような気がする。あなたが淋しいと感じるのはこころがどのような状態のときですか、って聞かれたら、こたえられるようにも思うけど」


と話した。


けれど、ベッドにいると②の意味も加わってくる。


こうやって臥せっている日々は、もちろん嫌だしつらいのだけど、普段は見えないものがたくさん見えてきてノートにそれらを書きとめている。


……うん。私のような職業のものには、悪くないことなのかもしれない、と自分を慰めながら今日一日を過ごすことにしよう。


あなたが淋しいと感じるのはこころがどのような状態のときですか?

■■44歳のアナイス■■2010.11.30

Anais私のブログのアドレスを見て、「あ、アナイス……」と言うひとはほとんどいない。
中田耕治先生の文学講座に出席なさっている方々くらいだった、反応してくれたのは。
あのときは驚きと嬉しさがあった。新しい世界に身を置いているのだと感じた。

そろそろアナイスの人生と自分自身の人生を重ねることから卒業したいとも思うのだけれど。

先日、知人とアナイスの話をした。

愛の遍歴で知られるアナイス、彼女は74歳で亡くなっているが、最後まで彼女は遍歴を続けていたのだろうか、というそんな話だった。

膨大なアナイスの日記、翻訳されているのはごくわずかでアナイス30代後半までしか詳細はわからない。

けれど、訳者の杉崎和子氏の「解説」によると、「1974年、ニンはその後の彼女の生涯を大きく変えることになるひとりの青年に出会った」とある。

16歳年下のルーパート・ポール。以後、30年間、彼と人生を共にする。
夫ヒューゴーとも別れないままに。

数か月ごとにルーパートのいるカリフォルニアと夫のいるニューヨークを往復する生活だった。

ニューヨークにいるときは、アナイスはルーパートのところに毎日午後4時に、必ず電話を入れた。

携帯も留守電もない時代。ルーパートは必ず家にいて、アナイスからの電話をとった。

最後の一年、末期癌に苦しむアナイスが最後の闘病生活を送ったのは、ルーパートのところだった。
ルーパートはアナイスの介護を一手に引き受け、臨終に立ち会った。

アナイスの死後、「私を海に戻して欲しい」という彼女の遺言を守り、小型飛行機をチャーターし、遺灰をサンタモニカ沖の海に散らしたのもルーパートだった。

カリフォルニアとニューヨークの二重生活を続けるアナイス、40代の半ばから亡くなるまで、恋の相手が他にいなかったはずはない。

けれどルーパートに勝る相手はいなかった。ある意味で、アナイスとルーパートの愛は永遠だった。

いろいろな愛のかたちがある。

アナイスを悩ましていた虚弱体質、精神の乱れ。それらは人生の後半、どのようになったのだろうか。知りたいとつよく思う。

アナイスがルーパートに出逢ったのは44歳のときだった。

■■とってもサガンな一週間■■2010.11.26

1120日に軽井沢で、1124日に銀座で、『サガンという生き方』トークイベントが開催されました。武道館コンサートのような大規模なものでなくったって、読者の方と直接ふれあうことができる、私にとっては貴重なひととき。

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銀座でのトークは、お相手の藤田尚弓さんのここちよいリードのおかげで、楽しくお話できました。


そして、またまた読者の方との出逢いもありました。私がサガンの本を読むように私の本を読んでくださっている、というお言葉に、私はこころで落涙しておりました。私の人生における、幸せな貴重な、光をかんじられるひとときでした。

■愛すること 「驟雨」 吉行淳之介■2010.11.19

101119_102601愛することは、この世の中に自分の分身を一つ持つことだ


中田耕治先生の文学講座の余韻で吉行淳之介を読み返している。

昨夜は「驟雨(しゅうう)」。

なんだかむしょうに、この作家と話をしたくなった。

逢いたかったなあ、とつよく思った。

ひとを愛するということについて、愛されることについて、自身の文学と実生活とのあいだに存在する隔たりについて、からだのよわさについて。話したかった。


「気に入る」ことと「愛する」ことの違い。


「気に入る」にとどめておくことの気楽さとむなしさ。


「愛する」ことの苦しさと充実。


私のなかにあるものととても近いものを見た。眠りに落ちるすんぜんに、何度も読み返した箇所。


「その女を、彼は気に入っていた。気に入る、ということは愛するとは別のことだ。愛することは、この世の中に自分の分身を一つ持つことだ。それは自分自身にたいしての顧慮が倍になることである。そこに愛情の鮮烈さもあるだろうが、わずらわしさが倍になることとしてそれから故意に身を避けているうちに、胸のときめくという感情は彼と疎遠なものになって行った」

■■あなたにとってのゆりかごは■■ 2010.11.17

_9_敬愛する中田耕治先生の「文学講座」、月に一度の数時間は、いまの私にとってこのうえなく重要な時間となっている。

先生のお話はひとことも聞きもらしたくないと思うからメモもとれない。
テキストはあるけれど、先生は原稿なしでお話をする。
あらかじめ紙に用意された言葉と、その時間その場所で生まれた言葉との違いを、いつも思い知らされる。私のトークなどあまりに薄っぺらい。

今月は「吉行淳之介」だった。メモもとれない、と言ったばかりだけれど、あまりにも強烈に突き刺さってきて、ペンを走らせてしまった。吉行淳之介について先生がおっしゃった言葉。

一種の極限状態を生きなければならなかった文学者

もうひとつ。

文学的生命をかけてのノン

強烈なのに、刺激的なのに、自分の怠慢さを指摘されているというのに、不思議と私はゆりかごを思った。

泣きそうになってしまった。

土曜の午後の吉祥寺。あまやかでなつかしい体験だった。

あなたにとって、ゆりかごのイメージはどんなですか。たずねてまわりたい気分。

作家中田耕治のサイトはこちら。

■■すべては、それを伝えるために■■2010.11.15

101112_100501_21112日金曜日の信濃毎日新聞に、『サガンという生き方』を出版した私と20日の文学サロンについての記事が掲載された。

当日は携帯メールやパソコンのメール、電話などが多く、その力をひしひしとかんじた。

先日の朝日新聞、それからテレビ出演などを合わせて、その反響に驚く日々。

ところが。

ほかのところ(どんなところ)での露出は趣味だったりすることがあるけれど、メディアに対してはいまだに戸惑う。

どうしても積極的になれない。

それでも、自分自身の神経が耐えられる範囲での露出はこれからもしてゆく。

なぜならそれはたとえば、新刊『サガンという生き方』の売り上げにつながる。

売れればそれだけサガンにふれるひとが増える。

私が伝えたいことが伝えられる可能性が広がる。

そして次の本が書ける。そういう流れがあるから。


すべては本を書き続けるために。


今週は20日土曜日の軽井沢での文学サロン『いま、なぜサガン?』がある。

次の週には24日水曜日銀座で『サガンという生き方』のトークイベントがある。

先週はなんだかハードだったので体調をととのえるため今週はしずかに執筆に集中してすごします。

■「朝日新聞」の記事と「生き方」■2010.11.10

101110_074801_2本日1110日『朝日新聞』長野版のページに、掲載されている、サガンと私と20日の文学カフェの案内。

「サガンの生き方に光 作家が魅力語る」

と題された記事をじっくりと読む。そして嬉しく思う。

あのとき、私がお話したことがきちんと受けとめられていることを確認して、とても嬉しく思う。署名記事で、記者は伊東大治さん。


いつも思うことだけれど、取材をしてくださる方と私とのあいだに、何かが流れた、通じ合った、という瞬間をもてたときは、読んだ私が感激するほどの記事になることが多い。


そこには必ず、私が伝えたいキーワードがある。

こういうことは、とても稀なことだけれど、でも稀でも、それがあるから、どんな幻滅があっても、次に期待して私はでかけてゆく。


仕事のつながりとはいえ、これはなんだろう。

その時間が数十分であったとしても、そのひとと私との人生に共通するなにか……生き方みたいなもの、生命に対する視線みたいなもの、そういうものがあるか否か、ということなのかもしれない。
仕事に対する情熱は当然のこととして。


昨日、友人知人にあててBCCでイベントのご案内のメールを送らせていただいた。BCCメールは、受け取る側としても味気ないのは重々承知で、でも、この方面に思い切り無精な私にとっては必死の作業。


だいたいアドレス帳の管理だってよくわからない。

でもひとりひとり、注意深く(なぜ)名を選んでゆく作業のなかで、思いがけない愛情を発見したりする。

懐かしい想いとともに。


そして、送信してすぐに思いがけない方から、すぐにご返信をいただいたりするとこんなに嬉しい。

何人かの方からトークイベント参加のメールをいただいたことは、もっと嬉しい。懐かしいひとたちに会えることで、胸がときめく。

昨夜はたくさん眠って、ここ数日の睡眠不足を解消。

だから今朝はごきげん。外は朝の風に、さびしくなった木々の葉が揺れて、仕事がいっぱいできそうでにこにこしちゃうほどの朝なんて、ほとんどない人生だから今日はがんばる。

■彼らの慟哭「中原淳一 あこがれの美意識」■2010.11.4

101104_074201風の強い祝日の午後のひととき、ぽっかりとひとりきりの時間ができて、リビングのテーブルの上に娘が置きっぱなしにしていった本を手にとった。

『中原淳一 あこがれの美意識』。


同時に数人を愛することが困難なように、同時に数人を書くことは困難なので、意識的に手にしないでいたのだけれど、ちょっとくらいいいか、と開いたら、出逢ってしまった。


中原淳一が竹久夢二について語っているくだり。


夢二は数多くの恋愛遍歴で知られる。そのあたりのことについて。


「道徳の世界では夢二が恋愛に関してとった態度を、周囲は否定せねばならない。

これは夢二にとっては不幸なことだ。

もし現在の社会の他に、もう一つ別な道徳(モラル)をもった社会があったなら、夢二はそこに住むべき人であった。


つまり彼の生涯は、彼にも周囲にも不幸であったといえよう。


してその不幸が夢二の画を貫く宿命のかなしさになった。


まことに夢二は、このきびしい現実の中で精一杯ロマンチックに生きようと努めた人であった。


彼の画のその甘い抒情の裏にギリギリと深く彫りつけてあるものこそ、夢二の現実との苦しい闘いの傷跡だったのである。」


ここを読んだとき、私は中原淳一の慟哭を聞いたように思った。

夢二の「宿命のかなしさ」はそのまま彼の「宿命のかなしさ」であると確信し、中原淳一というひとの「甘い抒情の裏にギリギリと深く彫りつけてあるもの」を、「現実との苦しい闘いの傷跡」を知りたいと願った。


私は、彼の美しい画、美しい言葉の裏にある傷を見たい。


部屋のなかはあたたかく、ひざかけのしたはぬくぬくとしていて、窓外に目をやれば強い風に今年はなかなか色が変わらないもみじがゆれていた。


「ああ、この瞬間」と思った。

すごく稀に訪れる、かんぺきなひととき。


私は孤独をいつくしみながらジャン・ジュネの言葉を懐かしく思い出した。


美には傷以外の起源はない

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