■2013年■

◎ウォリスとエドワード~英国王冠をかけた恋◎2013.11.18

Wウォリスって、シンプソン夫人のこと。

元イギリス国王エドワード8世の妻。

エドワード8世は人妻であったシンプソン夫人と結婚するために退位した。彼女がいなくては生きてゆけないと公言して。

「王冠を賭けた恋」とか「20世紀最大のスキャンダル」「世紀のラヴストーリー」とか言われるこの物語をマドンナが監督。

アメリカ現代社会を生きる、シンプソン夫人と同じ「ウォリス」という名の女性が、自分の人生とシンプソン夫人の人生を重ね合わせ、彼女の生き方、彼女が得たもの失ったもの……それを探ってゆく。

このあたりがひどく共感できて、だって、私はいつも誰かの人生と自分の人生を重ね合わせてしまうから。

もっとも胸に響いた箇所のセリフ。

シンプソン夫人の遺品が展示されている部屋で現代「ウォリス」(不幸な結婚中)が物思いにふけっている。

そこに彼女に想いを寄せる警備員が話しかける。

「何を考えている?」 「愛される喜びについて」 「愛の定義は?」 「すべてを捨てること」 ここでシンプソン夫人が登場する。幻影として。

そして現代「ウォリス」とシンプソン夫人の対話となる。

「私が捨てたもの? たくさん捨てたわよね。プライヴァシー、自由、評判」

「なぜ、できたの?」

「過去を振り返らず新しい人生を抱きしめたからよ」

「全世界を敵に回しても逃げなかったのね」

「スキを見せたら負けて傷つくわ」

何が面白いかって、たいていの人は、王冠を捨ててまで手に入れたかったシンプソン夫人という女性の魔力、シンプソン夫人のラッキーな人生とかに興味が行くけれど、マドンナは違って、

「でも、シンプソン夫人だって失ったものも大きかったはず」

という視点で見ていること。

ラストにシンプソン夫人の手紙が披露されるのだけれど、そこには夫エドワードに対する幻滅、でも、自分が選んだ人生を生きるしかないから意地でもここで生きる、みたいな決意が見てとれる。

いろいろ考えさせられた。いい映画だったな。

クリスマスイヴの日の朝に、編集者さんに完成原稿を送ることになっている。

「クリスマスプレゼントですねー」と彼は言う。

毎日毎日、今書いている一人の女性のことばかりを考えている。

休憩して原稿に向かって、ちょっと外に出てきて原稿に向かって、ちょっとお茶して原稿に向かって、ヨガに行ってすぐに帰って原稿に向かって。

その合間に「休憩」の意味で掃除をしたり料理をしたりしている。

世の中はクリスマスムード。

やっぱり私はこのムードに乗れない。つくづく思う。

だってどうしてもその意味っていうのを考えてしまうから。

同じような人ってどのくらいいるのだろう。思想が似ている人って……。

でもすこしは妥協する。

3年前に買った、軽井沢のと比べると十分の一くらいのツリーを出してきて飾ってみる。それでもそれは、彼女の喜ぶ顔を見たいから。それだけ。

私は私の人生を生きるよ。嫌なものは嫌だと、はっきりとは口に出して言えなくても、心のなかでは「嫌なの!」と、ひりひりするほどに認識している、そんな人生を生きる。そのようにしかできないから、どうしようもない。

■アナイス・ニンでいっぱい■2013.12.20

Ana

2013年の12月8日はアナイスにどっぷりと浸った一日だった。

それ以前から、さまざまなアナイスの本を読んでいたのだけれど、その日の朝、とあるカフェで『インセスト』を、適当にぱらりと開いたら、こんなフレーズが。

***
生に向き合うとき、私たちはいつも私たちの二面性を恐れながら、それを大いに必要としている。
***

二面性。
私、二面性どころではないな、と思う。

そしてアナイスもきっとそう。

確信に近いくらいにそう思う。多面すぎて、自分でも混乱しているのだと思う。

それにしても。強いときにはとことん強くなるアナイスが好き。弱いときには、とっても弱くなるアナイスが好き。

***
私が欺いているのは男たちではなく、私の要求を叶えてくれない生そのものだということも、はっきりした。

私は私の嘘を、勇気を持って、諷刺をこめて、二重にも三重にも生きる。そうしなければ、私が抱えている愛を使いきれないからだ。

今、私にはあり余る愛がある。その愛すべてを独り占めしたい男はいないはずだ。そんなにもらっても応えきれないのだから。
***

読みすぎて、ページの端を折っているところのほうが多くなりそう。

今朝の雨はとても気持ちがよかった。もっと降れ、と窓を開けて長い間、雨を眺めていた。マンションの半年にもおよぶ修繕工事がようやく終わりそうで、シートがとりはらわれて、そうしてようやく外の景色が眺められるようになると、以前は、なんとも思っていなかった景色が、とてもありがたく思えてくる。

私は、いったんシートで覆われないと、景色のありがたさがわからないような、そんな人間なのでした。

■誰に向かって作品を書くのか■2013.12.10

ネットで行われているあらゆることを私は恐れている。

だからフェイスブックもツイッターもしないし、このブログもコメントを受け付けないようにしているし、私自身について書かれたものは、極力見ないように心がけている。

もちろん、なかには、勇気づけられるものもあるけれども、それは稀なので、そんな私を知っている知人が、「私が見て気持ちがよくなるもの」だけを探してリンクを送ってくださっていた。

さいきん、その人が体調を崩されて、情報がなくなった。(どなたか奇特な方へ。こういう情報、ほしい……)

そんななか、今週のはじめに、うっかりとミスを冒してしまった。

とあるキーワードで調べものをしていたら、私の名前と「美男子美術館」が出てきて、つい、覗いてしまった。

そこには山口路子は小説なんてほとんど出していないのに自称「作家」、書かれていた。 ……作家です。こつこつと文章をつむいで、私自身の世界観を大切に大切にしながら作品を作っています。

その題材が恋愛であれ、誰か特定の人の人生であれ、絵画であれ、すべて私の人生における精神的な作業です。

命をかけていると言ってもいい。だから作家です。

さいきん小説を発表していないので小説家とは言っていません。

エッセイストという響きのもつ華やかなかんじにもなじめないし、コラムニストとは明らかに違うように思うから、もっとも自分がおちつくところで「作家」としているだけです。

ものを作り出す人、作家。間違ってはいないでしょう。

ちなみに普段、人と話すときに職業を聞かれると「ものかき」です、と言っています…… こんなふうに心のなかでつぶやいてから、ひどく腹が立って、珍しく強い怒りの感情が沸いてきた。

いつもはこの程度のことなら無視できるのに、いろんな状況がからんでいたのだろう、、怒りついでに勢いで、アマゾンの自分の本についてのレビューを見てみる気になった。

そうしたら、ひどいのがいくつかあって、それが絵画に関する本だったので、絵画に関する本を読む人=私のような書き方をする人が嫌い、という公式が成り立つのではないかとさえ思った。

レビューとは言えない、それは悪意の数行だったけれど。

ひどく落ちこんで、作品を発表するのが怖くなった。この感覚は初めてではないんだけれど。

それで、いったんは流そうと努力したものの、できなくて、いくつかのキーワードを入れて、同じような想いをしている作家の人たちを探した。

やはり同じような想いを抱いている人は当然いて、実際、闘っている人もいらした。

そんななか、胸に響いて、私をすくってくれたのが、小池一夫さんが書かれた記事。

***

ネットの匿名掲示板を作家は見ない方がいいとツィートしたら、批判も受けとめての創作ではないかと反論が来たのだが、僕はそう思わない。

元来、表現者は感受性が豊かだし、その匿名性を利用し、それを発言することで何も失う物が無い者達の礼儀無視の罵詈雑言に心乱れない者など何処にもいない。

中には有益な意見もあるが、それを見付ける為に、悪意の深淵を覗き込む事はない。

作家は、批評を受け入れる事も重要だが、それは、批評する人間としてスジを通したものだけで充分である。

「誰に向かって作品を書くのか」

創作者はそこだけは絶対にブレてはいけない。

***

泣きました。

そうです。「誰に向かって作品を書くのか」。

そこは絶対にブレてはいけないよ、私。

そして、「悪意の深淵を覗き込む事はない」。

それでもあまりにも動揺が続いているので、生れてはじめて、ヨガを体験してきた。

一番最初、仰向けになって目を閉じて、自分と向き合いましょう、いろんな悩み、考えなくてはいけないこと、それをいまは、少し離れたところに置いておきましょう……みたいな時間があるのだけど、その段階でほろほろと涙がこぼれて両の耳をぬらす状態の自分はやはりピンチなんだな、なんて思った。

それでも、じつに久々に身体を動かしたらすこし、楽な気持ちになれた。

そうしてようやく今朝、こうして、内面的事件を書くことができている。

写真は部屋に飾ってある妖精たち。娘が小学校4年生のときに私のマッサージというバイトでためたお金で、長い時間をかけて一人ずつ、買った妖精。

目を閉じてすこし微笑んでいる。

見ないでいることも大事。見ないでいるから微笑むことが可能だということもある。そんなふうに思う。

私は、私なりの精一杯でこれからも書いてゆくのだろう。

けれど、どんな場であれ、自分の立場を明らかにせずに誰かを批判するようなことは絶対に書かない。

卑怯な人。これは私がもっともなりたくない人だから。

■モローとルオーと愛しき人■2013.12.6

R「モローとルオー ~聖なるものの継承と変容」。

パナソニック汐留ミュージアム。

久しぶりに国内の美術展に出かけてみた。

絵に関する本などを書いているから、しょっちゅう美術展に出かけているように見えるみたいだけど、違う。

国内の企画展はちょっとかたくるしくて苦手。

混んでいたらもっと嫌。

混んでいるのが好きな人はいないだろうけれど。

それに順路順守ムードも嫌い。

モローもルオーも私は好き。

絵を観ながら、でも私はずっと、パリのモロー美術館のことを懐かしく思い出していた。

生前に、自分で自分の美術館を作ったモロー。

邸をそのまま美術館にしてしまったから、そこに足を踏み入れると、なんとも言いがたい空気につつまれる。

壁一面にだだだだと展示された作品のなかには、未完のものも多い。画家の意志によるものだ。

今回の美術展にも未完成のものがあった。

未完成のものを見せるというのはどういうことなのだろう、と考えた。

自分が成し遂げたかったこと、のなかにも見せるべきものがあるということなのか。

下絵とかデッサンとか、有名画家になるとそういうのも公開されているけれど、生前に本人が承諾した場合は除いて、亡くなったあと、本人の意思に関係なくそういうのも公開され、美術館に展示されたり画集に掲載されている画家のなかには、もしもそれを知る機会があったら、(精神世界の話になるけれど)、嫌だなあ、と思う人もいるだろうなあ。

そんなことを考えた。

人生において私は結果より経過を重視する。

その人が何をなそうとしていたのか、目標にむかってじたばたしたりあがいたり、諦めそうになったり希望をもったり。 そういう人間の熱みたいなものが愛しい。

けれど、それが芸術作品となると、芸術家自身が納得した完成品というものに価値を見る。

モローの弟子にあたるルオーは、なかなか作品が完成しない人だった。

納得できなくて絵具を何度も何度も塗り重ねた。

その姿を想像すると、愛しい。けれど作品としては完成品を見たい。

これって矛盾しているのかな。要求過多? わがまま?

パリのモロー美術館を訪れたのは、たしか1993の冬。

一人のパリだった。わあ、もう20年前だ。その翌年だったかな、再訪したのは。

時間旅行のメンバーの方々と一緒だった。今の100倍くらい傲慢だった20代後半のこと。

■死ぬまでをいかに美しく■2013.12.2

51kfsz5v0ql書棚から取り出して、なんとなく再読し始めた、好きな作家二人の対談集。

対談集に面白いものはあまりないと言われているけれど、うん、たしかに、対談集はむずかしいんだな、というのを感じた

それでもさすがな二人なので、たくさん胸に響く言葉があった。

たとえば、人間の美しさについて語っている箇所。

塩野七生は言う。

人間は「二十五歳以上は、もう肉体の力じゃない」と。

二十五歳以下の肉体は男でも女でもとっても美しいと。

だから、それ以上の年齢になれば、プラスアルファが必要で、美しく生きるということを考えたとき、心というのもあるのではないか。

そしてこれはソクラテス以来の問題なのだと。

そしてこんなふうに言う。

「なにせ死ぬことはわかっている。つまり、哲学というのは、死ぬまでをいかに美しく生きるか……」

うん、たしかに、そうなんだよなあ。

でも、だったら、私も哲学のまわりをうろうろしているかもしれないな。

塩野七生はまた、こんな興味深いことも言っていた。

彼女は若いころは「すべてか無か」というチェーザレ・ボルジア風に生きてきたけれど、これからは晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチの言ったことをモットーにするのだと。

それは「スペンデレベーネ」。これを日本語に訳すと「充実した」となるけれど、イタリア語だと「お金をうまく使った」という意味になるのだと。

ダ・ヴィンチは「スペンデレベーネした一日のあとに、こころよい眠りがくるのに似て、スペンデレベーネした一生のあとには、静かな死がくる」と言っていて、だから「もう、私はこれでいくの(笑)」だって。

このとき塩野七生は六十三歳ころ。私はその年まで生きているかな。生きていたら何をしているかな。

そしてどんなふうに考えているかな。

スペンデレベーネについてどんな考えをもっているかな

現在はもっとも自分と遠いところにある言葉のように思うから、だからなのかな、頭に焼きついてしまった。

春に出す予定の原稿、第1稿が、さきほど完成。編集者さんに送った。彼はどんな反応をするだろう。最高に緊張するとき。

■なるべく多くの魂につながりたい■2013.11.26

Img_526ようやく原稿がのってきた。

休憩タイムに坂口安吾を読む。ぼろぼろになった『堕落論』。

今日は「大阪の反逆」からの箇所が胸に響いた。

好きな言葉だから以前に書いたことがあるかもしれない。

「我々が知らなければならぬことは、身の上話のつまらなさではなく、身の上話を語りたがる人の心の切なさであり、あらゆる人が、その人なりに生きているおのおのの切なさと、その切なさが我々の読者となったとき、我々の小説の中に彼らがそのおのおのの影を追うことの素朴なつながりについてである」

好きだなあ、安吾。

つづけて「なるべく多くの魂につながりたい」という言葉もある。

縁あって出会った人たち。

私と会ったことで嫌な想いをする人もいるし、また、何かを得たと言ってくれる人もいる。私に会いたいと言ってくれる人たちと私はつながりたいと願う。

本もそうだ。会ったことはないけれど、私の本に、強く共鳴してくれる人がいたなら、きっと私とその人の魂はつながっている。そう信じて、書き続ける。

■ロスと『パピヨン』と「あのときのあなた」と■2013.11.20

81o4fv07fl『特に深刻な事情があるわけではないけれど、私にはどうしても逃避が必要なのです』が、中国で出版されるみたい。うれしい。

この本の最後のほうでエリザベス・キューブラー・ロスの自伝『人生は廻る輪のように』を私は紹介している。

ロスは死の概念を変えた魂の名医、と言われていて、強烈な個性をもった人で、その功績もとてつもなく大きいんだけど、『特に深刻な……』出版後、「興味をもってロスの本を読んだらすごく面白い!」という声をわりと多く聞く。

先日も「もう、ほとんどロス教信者です」、なんて言うかわいい女性から「ロスはこんなふうに言っている、あんなふうに言っている」という話を聞いて、再び読んでみようと思った。

ロスの本ではなく、ロスという人にせまった本、田口ランディの『パピヨン』だ。

昨夜から今朝にかけて読んだ。

すごく確執のある父親を看取るというテーマが重なっているから、とても重たいんだけど、以前読んだときよりも、理解……とまではいかなくても、共鳴できることが増えているような気がした。

パピヨンはフランス語で蝶という意味。「蝶」がこの本のシンボルでもあるのだけど、それとは別に気になるキーワードがあって、それは「受容」。受けいれる、ってこと。

キリスト教の世界観と東洋の世界観が、なにか深いところで一緒になっているかんじ。

西も東もなくて結局のところ「人間」をじっと、じっと、目をそらさないでじーっと見つめてゆくと、そこにいく、みたいなかんじなのかな。

ロスの本からの引用もあって、そのなかから胸に響いた箇所を。

「可能な限り悔いる気持ちと和解することに最大限の努力を払っていただきたい。

人生において、願望がすべてかなえられると考えるのは非現実的だ。

おなじように、完璧でありつづけること、後悔しないこともまた悲現実的である。

後悔する自分を許すことだ。

もっとよい選択をしていればよい結果が得られたと考えるのも真実とはいえない。

あのときのあなたは、あなたなりに最善をつくしたのだ」(『永遠の別れ』から)

「やりたいことだけをやる、というのは本当にたいせつです。

そんなことをしたら貧乏になるかもしれない。

車を手放すことになるかもしれない。

狭い家に引っ越さなくてはならないかもしれない。

でもその代わり、全身全霊で生きることができるのです。

世を去るときが近づいたとき、自分の人生を祝福することができるでしょう。

人生の目的を達成したのですから。

そうでないと、娼婦のような人生を送るはめになります。

つまりなにかある理由のために生きる、ほかの人のご機嫌をとるために生きるはめになります。

それでは生きたことにはなりません」(『「死ぬ瞬間」と死後の生』から)

ロスの本も、『パピヨン』も、私は魂レベルで理解してはいない。

けれども読後、こんなふうに思った。

自分が美しいと思わないことをしている自分を受けいれて、そして、自分が進みたい道を、すべての虚飾……誰かが決めた道徳、必要と思いこんでいるモノなど……をとりはらって、見つめること。

もし、そこに何かが見えたなら、そこを歩くこと。できるかぎり身軽になって。

■嫌悪にまみれる■2013.11.18

Gスコット・ペックの『愛すること、生きること』、がんばったんだけど、最後まで読めなかった。いま抱えている問題を幼少期の体験にその原因があるとする見方が合わなかったのか、やはり根底にキリスト教の精神がずっしりあることが合わなかったのかはわからないけれど、つらくて、ときに苛ついて、苦しくなって、あるとき、どうしてここまでして読まなくちゃいけないのか? と気づいて、やめた。

以前読んだときには、夢中で読めたのに。

人生は変化しているから、よくあること。

いつかきっとまた別の見方ができるでしょう。

「そんなもんじゃないでしょ」と、ずーっと感じながらの読書だった。

人間ってそんなに強くないし、崇高じゃないし、もっと複雑で、ぐちゃぐちゃしているものでしょう、ってずっと感じていた。

さいきん週末に精神が乱れる。

物書きっていう自由業なはずなのにヘンだ。

土日を「どうか原稿に集中できますように」の日とするのがいけないのか。

平日だってかわらないのに、たぶん、追われているんだな、これ。

ぜんぜん集中できないから『グレン・グールド』の伝記映画を観たりする。

カナダ出身の天才ピアニスト。

彼のCDはよく聴いている。

しかし、しかーし、観たあとに、気が滅入って仕方がない。

天才って何? 芸術って何? 

10代のころから注目されて20代で大成功をして、演奏旅行たくさんして、それが嫌になって30代初期にコンサート活動をいっさいやめて、それから20年レコーディングで自分の音楽を追求してゆく。

奇行でも注目された人だけれど、私生活は充実していなかったみたい。

母親危篤の報せにも病院の菌を恐れて行かなかったというのがすべてを物語る。

薬をたくさん飲んで、この時代はその悪影響がそれほど知られていなかったからなんだけど、安定剤、抗うつ剤、睡眠薬をたくさん飲んで、50歳で亡くなった。

ソファから立ち上がれないくらいに気が滅入った。

いま、観ないほうがよかった映画だ。

なにか創作のエナジーが得られるかと思って観たのに、負のスパイラルに陥っているということかな。

はい、時間ができました。はい、机に座ってください。スタート! 

で原稿が書き出せるなら、私にだって時間はある。

でもそうじゃないから、時間はいくらあっても足りない。

いつも祈るように机に向かう。どうか、どうか、集中できますように。

それがときに成功し、よく失敗する。

一本の電話、宅配便ですべてが崩れるときもある。情けない話だが。

書いている物語世界の中と現実との間で引き裂かれるようなあの感覚は最悪。

でも自分で選んでしていることだから、すべて。

負のスパイラル真っ只中では、感情のコントロールがうまくできなくなる。

激情に走るか、あるいは不感症になるか、極端なことしかできない。

そして、その結果、ひどい自己嫌悪にまみれる。

それでもいつまでもベッドにもぐりこんでいては生きてゆけない。

自分はそれほどひどくない、と思わなければ生きてゆけない。

だから誰も言ってくれないときには鏡を見ながらつぶやいたりして、笑いかけたりまでする不気味な女になる。

■往く人の少ない道を■2013.11.14

A今度書くかもしれない本の打ち合わせをするなかで、ユニークで愛すべき編集者さんが、スコット・ペックの『愛と心理療法』の全訳が出ていることを教えてくれた。

『恋に溺れて女になる』で、私がスコット・ペックの言葉を引用していたことからの流れで。 さっそく購入。

『愛すること、生きること』。

とってもストレートなタイトル。

その第一部、冒頭。

「人生は困難なものである。これは偉大な真実、もっとも偉大な真実のひとつである。」

ここを何度も読んでみて私は、この言葉が実感として自分の中に入っていることに気づいた。

釈迦も言っていることなんだけど、ほんと、そう思う。

人生は困難なもの。

誰もが問題を抱えて、そして誰もがそんななかでひとすじの希望を見ようとしている。

眠る前の読書タイムに少しずつ読み進めている。

昼間読み始めちゃうと原稿が書けなくなるから。

一日が過ぎるのが早すぎて、あれ、気づけば締め切りまで時間がない。

そんな状況にあるから。

すわりっぱなしで腰が痛い。

先日、花を買った。

お花屋さんで目に飛び込んできた青紫のあわあわとした花。

トルコキキョウ。

強烈ではない、ふんわりとして品のよい美しさにみとれた。

こんな美しさがあればいいのに。

『愛すること、生きること』の帯にはこんな言葉が。

精神的成長という“往く人の少ない道”をいかに進むか…… みょうに、惹かれる言葉。

◎「愛のあしあと」◎2013.11.11

61lhwluzkdl『愛のあしあと』、DVDで観賞。

びっくりした。ものすごい名作!……だと思うのに、それほど話題にならなかったような気がする。

公式サイトを見ると、20136月の終わりに2週間の限定公開だったって。

私にとってはどうでもいいような映画がお金かけて宣伝されている一方で、この映画がそんな扱いをされているなんて、あまりにも悲しすぎる。

この映画、女優3人の存在が、とにかくすばらしい。

カトリーヌ・ドヌーヴとキアラ・マストロヤンニ、実の母娘の共演。

キアラのお父さんはあのマルチェロ・マストロヤンニだから、もう、血がすごいんだけど、でも、どんなに優秀な両親のもとに生まれても両親の存在につぶされる子もいるから、そんななかにあって、キアラは強い、強烈。

そしてその母娘におしつぶされることなく輝いているのがリュディヴィーヌ・サニエ。

映画は、一応のストーリーはあるけれども、とにかく混沌としている。

キリスト教モラルとか、なんとなくの世間一般的なモラルとか、そういうのが機能しているようで機能していない。

ようするに愛に敏感な種類の人間というものの姿を美化することなく描いている、そんなかんじ。でも奇妙なことに、みんなが美しい。

愛がなくては生きられない。

というテーマがひとつあるけれども、その生き方をした結果が、やるせない。

愚かで自己愛に満ちて、そんななかでがらにもなく家族や友を想いやったりして。死があって。

けっして明るい物語ではないのに、全体的に陽気な空気が満ちていて、見終わったあと、しみじみと生きるということへのエナジーみたいのがわきあがってくる。

こういうのを優しい映画と言うの。

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