■男性作家(日本)■

■暗闇のなかのひとすじの光■2014.1.10

41hfyrwoz1l12月から1月にかけてのシーズンが一年のうちでもっとも嫌いになったのは、いつ頃だったのか。

とても幼いころのような気もする。

クリスマスとか年末年始が楽しかった記憶がほとんどない。

非日常であり、決まりごと、すべきことがたくさんあってそれに心身を合わせるのがつらかったようなそんな記憶のほうが、はるかに多い。

だからいつもこのシーズンは沈みこむ。

けれど今回は今までの人生のなかでもトップ3(ワースト?)に入るだろう、そんなシーズンを過ごした。

気づけばこころのなかで、「訴え」を繰り返している。

自分の主張を、繰り返している。

けれどそれは吐きだすことが許されないから飲みこむ。

いいえ、許されないからではなく、醜すぎて自分が許せないから誰の目にもふれないように飲みむのかもしれない。

飲みこみすぎれば体調を崩す。

とうぜん、頭にだって心にだってよいわけがない。

私はずっと、ひとりきりで年末年始を過ごしている人は、どのくらいの割合でいるのだろう、そしてそのなかで、ひとりきりでいることに安堵している人、寂しさを感じている人はどのくらいいるのだろう……そんなことを考えていた。

昨夕、期日の迫っている仕事を少しして、それから数日前に買ってあった『人間の運命』を読んだ。

この本を見かけた娘が言っていた。

「また、重いタイトルの本だね。もっと、軽いのも読んでみたら? この間プレゼントした『ガミガミ女とスーダラ男』とか。ママが読む本はみんな重たい」

人間の運命。

たしかに軽くはないタイトルだわ……。

それでも、もともと五木寛之が好きなこともあり、そして本の内容からしても、とても共鳴できた。

いま読むべき本だったんだなあ、と思えた。

だって、この本のおかげで、ようやくこうして、大切にしているブログに新しい文章を書こうという気になっている。エナジーがすこしわいてきたかんじ。

『人間の運命』、ノートに書き写した箇所はいくつかあるけれど、そのなかでも、「え! うそ! しょっく!」とこころのなかで絶望的な悲鳴をあげてしまったところはここ。

五木寛之は、宗教とか運命とかいった言葉に抵抗を覚えるけれど、それでもこころのどこかで宗教的なものをちらりと求めていたり、運命について考えなかった日は、一日としてなかった、と言う。その理由はこれ。

***

それは自分自身のなかの、意識と無意識のふかいところに、なにか不安なものをかかえこんでいるからだろうと思う。

心のバランスがくずれ、いつも自分が安定していない感じがする。

ときにはそれが、えたいのしれない鬱状態としてあらわれたり、体調に影響したりもする。***

五木寛之は、少年のころからずっとそうだったんだって。それで、こんなふうに言う。

***

年齢をかさねるごとに人は生きることの意味を理解し、覚悟がさだまってくるという。

それは嘘だ。

年をとると、心も体もさらに不安定になってくるものである。

***

ここで私は絶望的悲鳴をあげたのでした。

これからもっと不安定になるわけ? かんべんしてよ、と。

これを書いたとき、彼は77歳くらい。わあ……。

彼は、なかなか眠りにつけず、午前六時ごろに睡眠導入剤をのんでベッドに入る。体を動かすことがおっくうでならなかったり、人に対して高圧的になったりもする。

すべては心の不安が原因だ。それで、じゃあ、いま、何が欲しいのかといえば、

***

自分の心の不安やおそれは、そのままでいい。それを治療してほしいわけではない。心に厄介な重荷をかかえながら、心身に苦痛をおぼえつつ、それでもそれにおしつぶされずに毎日を生きていくことのできるエネルギーを求めているのである

***

そのエネルギーを彼は「闇を照らす光」と言っている。

ああ、私とおんなじだ。

暗闇を照らすひとすじの光。それを私も、いつも探している。しばしば見えなくなるから。

いつも安定しているなんて無理だ。いつも穏やかでいるのも無理だ。不安定が普通だから、それを受けいれて、そのうえで、ひとすじの光を見失わないようにするしかない。

見えなくなっちゃったら、それを探すことを、そのときの仕事とすればいい。そんなふうに思う。

けっして暗いとは思わないし、暗いのではない。それが人生なんだなあ、たぶん。

それにしてもね、指一本動かすのもできないような状態のときは、ほんとうにしんどいけれど、そんなときは、無理に動かさないで、動くようになるときを待つしかない。

そんな状態は異常なのではなく、自分自身の一部なんだから。

■死ぬまでをいかに美しく■2013.12.2

51kfsz5v0ql書棚から取り出して、なんとなく再読し始めた、好きな作家二人の対談集。

対談集に面白いものはあまりないと言われているけれど、うん、たしかに、対談集はむずかしいんだな、というのを感じた

それでもさすがな二人なので、たくさん胸に響く言葉があった。

たとえば、人間の美しさについて語っている箇所。

塩野七生は言う。

人間は「二十五歳以上は、もう肉体の力じゃない」と。

二十五歳以下の肉体は男でも女でもとっても美しいと。

だから、それ以上の年齢になれば、プラスアルファが必要で、美しく生きるということを考えたとき、心というのもあるのではないか。

そしてこれはソクラテス以来の問題なのだと。

そしてこんなふうに言う。

「なにせ死ぬことはわかっている。つまり、哲学というのは、死ぬまでをいかに美しく生きるか……」

うん、たしかに、そうなんだよなあ。

でも、だったら、私も哲学のまわりをうろうろしているかもしれないな。

塩野七生はまた、こんな興味深いことも言っていた。

彼女は若いころは「すべてか無か」というチェーザレ・ボルジア風に生きてきたけれど、これからは晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチの言ったことをモットーにするのだと。

それは「スペンデレベーネ」。これを日本語に訳すと「充実した」となるけれど、イタリア語だと「お金をうまく使った」という意味になるのだと。

ダ・ヴィンチは「スペンデレベーネした一日のあとに、こころよい眠りがくるのに似て、スペンデレベーネした一生のあとには、静かな死がくる」と言っていて、だから「もう、私はこれでいくの(笑)」だって。

このとき塩野七生は六十三歳ころ。私はその年まで生きているかな。生きていたら何をしているかな。

そしてどんなふうに考えているかな。

スペンデレベーネについてどんな考えをもっているかな

現在はもっとも自分と遠いところにある言葉のように思うから、だからなのかな、頭に焼きついてしまった。

春に出す予定の原稿、第1稿が、さきほど完成。編集者さんに送った。彼はどんな反応をするだろう。最高に緊張するとき。

■自分だけのもの■2013.11.9

ほんとうに人の心を動かすものは、毒に当てられた奴、罰の当たった奴でなければ、書けないものだ。(略)生きている奴は何をしでかすかわからない、何もわからず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリギリのところを這いまわっている罰当たりには、物の必然などはいっこうに見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それがまた万人のものとなる。芸術とはそういうものだ。」

久しぶりに坂口安吾。

これは「教祖の文学」から。

なにか心を撫でられた感じがするな。

私が経験しているいろんなことは、自分だけのものを見るためにあるのかもしれない。

だとしたら、そういう自分を、人生をひきうけなければ。

安吾のこのエッセイには宮沢賢治の「眼にて言ふ」という遺稿が紹介されていて、安吾も好きだから紹介していて、私も胸うたれる詩。

***

だめでせう

とまりませんな

がぶがぶ湧いているですからな

ゆふべからねむらず

血もでつづけなもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといい風でせう

もう清明が近いので

もみぢの若芽と毛のやうな花に

秋草のやうな波を立て

あんなに青空から

もりあがって湧くやうに

きれいな風がくるですな

あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本気にいろいろ手あてもしていただければ

これで死んでもまづは文句もありません

血が出ているにかかはらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄なかばからだをはなれたのですかな

ただどうも血のために

それを言へないのがひどいです

あなたの方から見たら

ずいぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青ぞらと

すきとほった風ばかりです

***

死にさいして、血を吐きながらきれいな青ぞらとすきとおった風を見る賢治。

そしてそれに感動する安吾。

私はふたりのそれぞれの心の動きを想像する。

するとたまらなく愛しくなる。人間に対する希望がすこし感じられる瞬間。

■「言葉の箱」が痛いとき■2013.11.9

414d3e1rj7l小説家なり芸術家なりが、枯渇して書けなくなるということは、基本的な生命がなくなるということです

精神的な生命、命の火、生命のシンボルがなくなるということは、自分が日常の世界のなかに、裏返されたボールみたいに、全部ひっくり返されてはりついてしまうということです」

 

小説家、辻邦生の『言葉の箱』について、妻の佐保子さんの「あとがき」によると。

 

***

 

・・・・・・ようやく辿りつくことのできた「小説とは何か」という問いに対する最終的な回答だったような気がする。(略)読むという快楽が永久に不滅であるという長年の信念を、熱心な聴衆である「書き手」の方たちに伝達し、自分が担い続けてきた使命や文学の未来を次の世代に委託したかったのだと思う。

 

***

 

小説家志望の人たちを前に話したことをまとめた本なので、とても読みやすい。

この本については『うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ』のなかでも大切な本として取り上げている。

テーマは「生命のシンボル」で、15年くらい前に私は、この本にたしかに、すくわれたのだった。

 

小説家をめざしていなくても、「生きる」ということが、優しく力強い視線で語られている、ゆたかな知性に支えられた辻邦生の、人間的な魅力があふれている、そういう本だ。

何年かぶりに読み返してみて、あらためて感じ入った。

 

新刊が出て、それを送りつけることをとても図々しいことだと思っている私は、友人知人にはほとんど送らない。それでも、5人の人たちには、送ることにしている。文学の世界にいらっしゃる方々で、私よりずっと年上で、さまざまな示唆を与えてくださるから。

 

そのほとんどの人たちが、そのたびにおっしゃる。「早く次の小説を書きなさい」と。そのたびに私の胸は痛む。なぜかは自分が一番よく知っている。

■受いれたい■2013.11.1

61xecd9hqal偶然、テレビで加島祥造を見た。あ、イエーツの人だ、と思った。思潮社から出ている「イエーツ詩集」の編訳者の人だ、と。

詩集の最後に「イエーツについての実感的覚え書」というのがあって、その内容と言葉のセンスに惹かれて、心のどこかにずっと置いてあった人だ。

90歳。

信州の伊那谷でひとりで暮らす一人の人間の姿に圧倒的に胸うたれた。

aloneだけどlonelyじゃない、ってそんなふうに言っていた。

どうしていままで、彼にふれないできたのだろう! すぐに彼の著作を探した。

英米文学者だと思っていたら、日本を代表するタオイストとしてご活躍だった。私はイエーツでインプットしていたから、最初、老子がピンとこなかった。

五年くらい前に『求めない』という詩集が大ベストセラーになっていた。ぜんぜん知らなかった。

私は最新作の詩集『受いれる』を購入した。

『求めない』と迷ったけれど、「求めない」のハードルは強欲な自分にとって高すぎる気がして、でも『受いれる』なら、すこしくらいは、という希望で読み始めた。

最初の一ページ。

***

受いれる

すると

優しい気持ちに

還る

***

すでにここで、ううっ、なんてこみあげてくるのは、自分のなかに「受いれる」がなかった証拠かな。情けない。

今回響いたところを書きぬいておこう。

***

受いれる――

それは

変化を許すことだ

自分の変化を許すと

他の人が変わることも許すようになるよ

***

教会や神前で

ふたりの愛はいつまでも変わらない

と誓いあうのは

大嘘さ

愛はいずれにしても形を変える

でも、いいじゃないか

その時はそう思ったけれど

いまはこう変わったんだ、と

言えばいいんだ

なんの後ろめたさもなしにね

受いれる心でいれば

人生のどんな変化にも

応じられるんだ

***

いま、を受いれる、ということ。

ほんのすこしだけ、息が楽になったような気がした。

それにしても加島祥造は魅力的だな。映像を見ていても思ったけれど、90歳、現時点での本にふれて強く感じた。

大学教授で英米文学翻訳者としても成功して家族もあって、それでもずっと違和感があって苦しかったんだって。 

身体をこわすほどに苦しかったんだって。 

それで60歳のときに、逃げ出しちゃったんだって。 

そして最愛の人に出会ったんだって。 

そして彼女を病気で喪っちゃったんだって。 

それでもこんなに美しくやさしい詩を創造した。

人生をそこそこうまく泳いできた人にはない包容力がある。

自分が血だらけになって苦しんだ人の言葉は、なんていうか、裏切らない重みがある気がする。

私はこの詩集にずっしりとそれを感じた。

■■こどもになりたい■■2013.9.11

Img_20130911_141617おとなであることを要求される場面が続いたような気してきて、ひとつひとつ思い浮かべていたらとても疲れた。

なので『仏の発見』を読む。

なんとなく寛容なものがそこにあるような気がして。

五木寛之と梅原猛の対談という、名前だけで、何かを得たような気分になれる本。


たぶん私、一割も理解できていないだろうけど、でも一割あるなら、じゅうぶんでしょうとも思う。

それで、今回は仏とは直接関係ない部分に、ラインを引いた。

「やっぱり創造者というのは、年をとっても子供の魂を持っている人だと思いましたね。」


お二人はそんなことを話し、例として、岡本太郎と湯川秀樹をあげている。

この例は偉大すぎて、自分のことに引き寄せられないのが悲しいところだけれど、こういう文章を読むと、しょんぼりしてしまう。

わたしときたらめちゃくちゃハンパだなあ。


おとなの女は、周囲から好まれ、信頼され、愛される。

おとなの女は東京オリンピックを肯定的にとらえる。

嫌な想いをしていても笑顔を崩さない。

あの人嫌い、とかすぐに言わない。

それをするくらいなら死を選ぶわっ、なんてことも口にしない。

そして、こどもになりたい、なんてつぶやいたりもしない。


都会も季節が変わろうとしているみたい。軽井沢みたいに、くっきりとはわからない、ぼんやりと感じる。

■■抵抗できないこと■■2013.6.27

Dsc_0165彫刻家の高田博厚のルオーに対する想いがぎっしりとこめられた本を読んでいる。読むのは三度目だけれど、今回がいちばん胸に響く。芸

術というものにかける人間の、祈りのような熱が、ある。


***

人間は恋するとき、恋する相手を「所有」したいのである。

「美」に感動するとき、「自分」がそれに参画したいのである。

これに抵抗できないのが芸術家の運命である。

***


私が抵抗できないことはなんだろう。

そんなことを考える。ひとつ、ふたつ思い浮かぶ。

抵抗できないことは、そんなに多くはないみたい。

それにしてもルオーという画家も、彼を書いた高田博厚も、自らの芸術を追求することに命がけ。


そういう熱にふれると、私は呼吸が少しらくになる。

■■すべてのことには時があるんです■■2013.6.20

31tfkxwoerl『あなたは誰? 私はここにいる』(以前にも書いています)を読み返して、あらためて深いところで、つよく共鳴した。

そして絵画をテーマに「人生哲学」を語る姜尚中の寛容で強靭な人としての魅力と言葉の力に感じ入る。

文章って、こんなに中身が出ちゃうんだな、なんて改めて確認したりして、気をひきしめる。

今回は、いろんな人がいろんなところで使っていて、私もたぶんどこかで使っている好きなフレーズが、胸に突き刺さってきた。

出典は聖書の「伝道の書」。

天(あめ)の下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある

生るるに時があり、死ぬるに時があり、

飢えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、

いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、

泣くに時があり、笑うに時があり、

悲しむに時があり、踊るに時がある。」

気持ちがふっと軽くなるように思える。

そうそう。別れるにも時があって、出逢うにも時があって、発見してもらうにも時があって、だから、いま目の前にある、やるべきことに全力でうちこんで、人生にちらばっているさまざまなことも、無理して決着をつけるのではなく、ときには身をまかせて、「すべてのことには時があるんだもんねー」とつぶやいたりするのもきっと、必要なのでしょう。

■「メモワール写真家・古屋誠一との二〇年」小林紀晴■2013.5.20

Dsc_0147久しぶりに美容院で長い時間を過ごした。そ

こで手にとった雑誌、フィガロだったかな、そこにお勧めの本のコーナーがあって、「ああ、これは、そろそろ読まなきゃいけない本だ」と思った。そしてその足で書店によって、購入して帰宅した。


日曜日、体調が悪くどこにも出かけられなかったから、この本を読んだ。

そしていま、後悔しているようないないような、まだまとまらないんだけど、でも、ずっとこの本の内容のことを考えているのだから、読んでよかったのだと思うようにしよう。


「メモワール 写真家・古屋誠一との二〇年」小林紀晴著


古屋誠一の妻クリスティーネは精神を病んだ末、マンションの屋上から飛び降り自殺した。

夫婦の間には幼い息子がいた。古屋誠一は妻と知り合ってからすぐに妻を撮り始めた。日常的に撮った。精神を病んでいく過程も、妻の最期も撮った。

妻が飛び降りた地点から地上の妻のなきがらにむけてシャッターを切った。

いったん、自室にカメラをとりに行き、写真を撮って、それから地上に降りた。

この写真家に強い興味を抱いた写真家小林紀晴が、古屋誠一に徹底的に固執して彼の人生、写真を撮るということ、妻の最期をなぜ撮ったのか、なぜ? という根源的な問い、そういうものを描きだしている、

半端な気持ちじゃあ読めない本だ。


途中、荒木経惟へのインタビューが興味深かった。荒木経惟、アラーキーも妻の陽子さんを日常的に撮り、自殺ではなく病死だけれど、早くに失っている。死に顔も撮っている。私は一時期このふたりの関係に病的なほどにのめりこんだことがある。

アラーキーは、古屋誠一に対して、「お前は愛が足らないんだよ」と、直接言ったことがあるという。なんだか、この言葉に、すべてが集約されているように思う。

それから写真評論家飯沢耕太郎の言葉。「クリスティーネの圧倒的な美しさ」「狂気の女性が持っている異様な美しさ」。


古屋誠一の、写真家としてよい作品を創りたいという欲望が、この言葉からにじみでているようで、醜いものを見たあとのような嫌なかんじがした。


震災の後、被災地に向かった写真家、向かわなかった写真家、そのあたりのことについても言及してあって、これはとても興味深かった。


著者の小林紀晴はスーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』に影響をうけていて、いくつか引用されている。

***

第六章にはプラトンの『国家』からの引用で、レオンティオスという男のことに触れている。男は処刑された死体が地面に横たわっていることを知り、近くに言ってもっと見てみたいと思う。同時に引き返そうともする。目を蔽い、しばらく迷う。やがて欲望が勝る。死体に近づき、目を見開き声にする

さあ来たぞ。お前たち呪われた眼よ。この美しい光景を思いきり楽しめ


この眼を被災地に向かった写真家、そして行きたい欲求を抑えるのに苦労した私ももっているはずだ。


<呪われた眼>を持った写真家たちよ、<この美しい光景を思いきり楽しめ>と、耳を澄ませば心の奥底から声が聞えてくる。


だからこそ、写真家の多くがモラルや倫理について熱心に語り、心揺らしているのではないだろうか。

***


ラスト、病的なほどに執拗に何度も何度も編みなおしてずっと妻の写真を発表し続けている古屋誠一を、著者小林紀晴は、肯定して終わる。

肯定しないでは、自分自身、すくわれなかったのだろうな、と私は思った。


そしてところどころで紹介されるクリスティーネの手記に、私にも経験のある葛藤や苦しみがあらわれていたから、息苦しくなった。


けれど、私は生きているしクリスティーネは死んだ。


私は最期を写真に撮ってほしいかな。そのときが来て、そばにいる人は誰かな。自死以外だったらたぶん、安堵していると思うから撮って欲しいかな。携帯のじゃ嫌だけどね。

よく眠れず、うなされるし、何度も目を覚ますし、さんざんな月曜日の朝。こういう本、まだ少し早かったのかもしれない。

■■絶望と諦めについて考える土曜日■■2013.4.27

20130427五月下旬に発売予定の本の帯を編集者さんと考えて、そのなかで「絶望」という言葉を使うことになった。

本文の中でも、いっぱい出てくる言葉、「絶望」。

全体的に漂っているのが「諦め」。

あれ。たしかこの二つについて辻邦生が書いていたはず、と夜中に思いつき、歴代のノートを繰った。1998年頃のノートに発見。

辻邦生の「愛、生きる喜び」からいくつか書きうつしていたなかにあった。

これは数多くの小説のなかからひろった言葉を集めた本だったような気がしているけれど、どうだったかな。

お目当ての文章は「ある生涯の七つの場所」という壮大な物語(短編がいっぱい)のなかの「夜の歩み」という短編にある言葉だった。


***

「絶望と諦めはそんなに違うかな?」


「違うわ。それは心の方向(むき)がまったく違うのよ。絶望は、希望から見放され、見棄てられた状態なのよ。それはこの世から追い出されたようなものよ。地面が捲きとられて、真っ黒な虚空に立つのに似ているわ。泣いて泣いて涙が枯れたときに残る痛みのようなものだわ」


「たしかに絶望は、落下してゆく檻のようなところがあるね。それに較べたら、諦めは静止している檻なのかもしれないね」

***


どっちが先なんだろう、絶望と諦め。

そういう問題じゃないのかな。けれど、私の場合は、絶望を何度も味わって、味わって、味わって、少しずつ諦めを知っているような気がしている。

そして、それはそんなに悪くないかんじなのが、意外。

昨夜はデザイナーさんからいただいたデータをプリントアウトして家に持って帰って、どのカバーの色がいいかなー、と娘とあれこれ話した。

どんな本を書こうかと、その方向性、テーマみたいなものを決めているときは楽しい。

資料集めなどをしているときも、楽しい。

原稿書き始めると苦しい。

原稿書き終えると嬉しい。

校正中、次第に不安になる。

たまに、本気で「やっぱり出すのやめよ」なんて思う。

「これが最後の校正です」のときは、活字を追えないくらいに不安で逃げたくなる。

カバーの打ち合わせは楽しい。

すべてが自分の手から離れて、あとは見本がくるのを待つだけ~書店に並ぶまで、は、もうどこかに行ってしまいたくなる。


今は「これが最後の校正です」中。心臓がばくばくする。一文字一文字に魂がこもっているか、確認したいのに、うまくできない。

けれど、これにとりかかっているときは、絶望とも諦めとも、ちょっと違う空気のなかにいる。

世間はゴールデンウイーク。私には関係ない。ただ、お弁当クラブがお休みなのが、嬉しい。

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