■女性作家(日本)■

■死ぬまでをいかに美しく■2013.12.2

51kfsz5v0ql書棚から取り出して、なんとなく再読し始めた、好きな作家二人の対談集。

対談集に面白いものはあまりないと言われているけれど、うん、たしかに、対談集はむずかしいんだな、というのを感じた

それでもさすがな二人なので、たくさん胸に響く言葉があった。

たとえば、人間の美しさについて語っている箇所。

塩野七生は言う。

人間は「二十五歳以上は、もう肉体の力じゃない」と。

二十五歳以下の肉体は男でも女でもとっても美しいと。

だから、それ以上の年齢になれば、プラスアルファが必要で、美しく生きるということを考えたとき、心というのもあるのではないか。

そしてこれはソクラテス以来の問題なのだと。

そしてこんなふうに言う。

「なにせ死ぬことはわかっている。つまり、哲学というのは、死ぬまでをいかに美しく生きるか……」

うん、たしかに、そうなんだよなあ。

でも、だったら、私も哲学のまわりをうろうろしているかもしれないな。

塩野七生はまた、こんな興味深いことも言っていた。

彼女は若いころは「すべてか無か」というチェーザレ・ボルジア風に生きてきたけれど、これからは晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチの言ったことをモットーにするのだと。

それは「スペンデレベーネ」。これを日本語に訳すと「充実した」となるけれど、イタリア語だと「お金をうまく使った」という意味になるのだと。

ダ・ヴィンチは「スペンデレベーネした一日のあとに、こころよい眠りがくるのに似て、スペンデレベーネした一生のあとには、静かな死がくる」と言っていて、だから「もう、私はこれでいくの(笑)」だって。

このとき塩野七生は六十三歳ころ。私はその年まで生きているかな。生きていたら何をしているかな。

そしてどんなふうに考えているかな。

スペンデレベーネについてどんな考えをもっているかな

現在はもっとも自分と遠いところにある言葉のように思うから、だからなのかな、頭に焼きついてしまった。

春に出す予定の原稿、第1稿が、さきほど完成。編集者さんに送った。彼はどんな反応をするだろう。最高に緊張するとき。

■ロスと『パピヨン』と「あのときのあなた」と■2013.11.20

81o4fv07fl『特に深刻な事情があるわけではないけれど、私にはどうしても逃避が必要なのです』が、中国で出版されるみたい。うれしい。

この本の最後のほうでエリザベス・キューブラー・ロスの自伝『人生は廻る輪のように』を私は紹介している。

ロスは死の概念を変えた魂の名医、と言われていて、強烈な個性をもった人で、その功績もとてつもなく大きいんだけど、『特に深刻な……』出版後、「興味をもってロスの本を読んだらすごく面白い!」という声をわりと多く聞く。

先日も「もう、ほとんどロス教信者です」、なんて言うかわいい女性から「ロスはこんなふうに言っている、あんなふうに言っている」という話を聞いて、再び読んでみようと思った。

ロスの本ではなく、ロスという人にせまった本、田口ランディの『パピヨン』だ。

昨夜から今朝にかけて読んだ。

すごく確執のある父親を看取るというテーマが重なっているから、とても重たいんだけど、以前読んだときよりも、理解……とまではいかなくても、共鳴できることが増えているような気がした。

パピヨンはフランス語で蝶という意味。「蝶」がこの本のシンボルでもあるのだけど、それとは別に気になるキーワードがあって、それは「受容」。受けいれる、ってこと。

キリスト教の世界観と東洋の世界観が、なにか深いところで一緒になっているかんじ。

西も東もなくて結局のところ「人間」をじっと、じっと、目をそらさないでじーっと見つめてゆくと、そこにいく、みたいなかんじなのかな。

ロスの本からの引用もあって、そのなかから胸に響いた箇所を。

「可能な限り悔いる気持ちと和解することに最大限の努力を払っていただきたい。

人生において、願望がすべてかなえられると考えるのは非現実的だ。

おなじように、完璧でありつづけること、後悔しないこともまた悲現実的である。

後悔する自分を許すことだ。

もっとよい選択をしていればよい結果が得られたと考えるのも真実とはいえない。

あのときのあなたは、あなたなりに最善をつくしたのだ」(『永遠の別れ』から)

「やりたいことだけをやる、というのは本当にたいせつです。

そんなことをしたら貧乏になるかもしれない。

車を手放すことになるかもしれない。

狭い家に引っ越さなくてはならないかもしれない。

でもその代わり、全身全霊で生きることができるのです。

世を去るときが近づいたとき、自分の人生を祝福することができるでしょう。

人生の目的を達成したのですから。

そうでないと、娼婦のような人生を送るはめになります。

つまりなにかある理由のために生きる、ほかの人のご機嫌をとるために生きるはめになります。

それでは生きたことにはなりません」(『「死ぬ瞬間」と死後の生』から)

ロスの本も、『パピヨン』も、私は魂レベルで理解してはいない。

けれども読後、こんなふうに思った。

自分が美しいと思わないことをしている自分を受けいれて、そして、自分が進みたい道を、すべての虚飾……誰かが決めた道徳、必要と思いこんでいるモノなど……をとりはらって、見つめること。

もし、そこに何かが見えたなら、そこを歩くこと。できるかぎり身軽になって。

■■立ち腐れた棒杭■■2013.10.29

41u5b9qcnl濃霧のなかでどちらに向かって歩いているのか、どちらに向かって歩くべきなのか、まったくわからなくて、それでもうろうろとさまよってエナジーだけは消費してしまうような。

先週、これをどうにかしたくて自分の書棚にすがったけれど、出会いがなかったので、いつもの書店に出かけた。

誰のどういう本を探すというのではない、今の自分をどうにかしてくれそうな本を探す。

あちらこちら、さまざまなジャンルのところをめぐる。

タイトルを読む。

帯の文章を読む。

30分以上そうしていて、私は久々に自分が、「切実に本をもとめている人」をしていることに気づいた。

そして思った。

ああ、いくら活字離れが叫ばれようとも、人間のこのような切実な想いはきっと消えない。私は、今の自分みたいな人に届くような、そんな本を書きたい。


さて。

そんなこんなで買ったのが『人間の基本』。

信頼している作家の本だから迷いはなかった。ただ、構成・編集部というのが気になったけれど、そんなのどうでもいいや、と思えたのが帯の言葉。

足場のない人は、人生を無駄にする。生き方を見つめ直そうとしている人へ――」

レジで、書店の人の「カヴァーはおかけしますか」という問いに首を横に振って、差し出された本を受け取って、私はしみじみと、現在の自分の状態を知った。

そして「はじめに」のラスト3行ですでに落涙していた。

***

私は卑怯者ですから、流れにさからうということもしないんです。

それでもそういう時に、ふと流れの傍に立って、半分立ち腐れのまま、川の中に立っている棒杭の姿に見とれることがあります

この本の背景には、そんな光景があるのかもしれません。

***

目を閉じて、川の流れを想像する。

立ち腐れた棒杭はなんて美しいのだろう。

自らの姿と比較して、情けなくて、また泣けてきた。

■■自分で守ればかものよ■■2013.8.23

Img_20130823_152356先日、自分をけとばしたくなる、と書いたあと書店に寄って、茨木のり子の詩集を買った。

自分の本棚を探したけれど、なぜか見つからなかったから。どうしても読みたくて。有名すぎる詩ですが、ご紹介。

***

自分の感受性くらい



ぱさぱさに乾いてゆく心を

ひとのせいにはするな

みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを

友人のせいにはするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを

近親のせいにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ

***

この本の帯には「自分を叱る」という文字が。

まったく。

「逃げなさい」と帯にある逃避の本を出版してみたり、自分を叱ってみたくなったり、忙しいな人生は。

けれど、この詩を何度も何度も口にしていたら、「相手の行動のほとんどは自分自身の鏡」という信条を、すこし取り戻せたような気がした。そうしたら大切なものの姿の輪郭が、すこしだけくっきりとしてきたみたい

■■たましいと涙■■2013.3.31

20130331竹内てるよの詩の一節が、ずいぶん前に心うたれた、あの詩の一節が、離れない。

生れて何も知らぬ 

吾子の頬に 

母よ 

絶望の涙をおとすな

もう「生れて何も知らぬ」年齢ではないな。

何も知らせたくない 吾子の頬に 母よ 絶望の涙をおとすな みずからが与えた試練でくるしんでいる吾子の頬に 母よ どうか どうか 絶望の涙をおとすな 

こんなかんじかな。

こんな母に育てられた子が「うまくできていないから雑巾にでも」と言ったTシャツを拾っていつも見えるところに飾っている。

親ばかそのものなんだろうけど、好きだな、いいな、この絵。と思う。

手のひらのうえにある青いのは、たましい、のようなものなんだって。私は涙みたいなものかと思った、でも同じようなもの。

思考があちらこちらに飛ぶ、人が本当に絶望するのは疑いが確信に変わったとき、って言ったのは誰だったっけ。

ああ。マリリンのノートを思い出す。あのたよりない筆跡で書かれたあの単語を。

Help!

■■芸術のほんとうの力■■2012.12.12

51c9vzzjfflこのところ、絵画に関する本を読んでいる。

私の処女作である『彼女はなぜ愛され、描かれたのか』が出版されたのが、2003年、それ以来、絵画についての本は出していない(のちにこの本は『美神(ミューズ)の恋』というタイトルで文庫化)。


この10年間で、ちょっとした絵画の謎解きブームみたいなのがおきて、たくさんの絵画の本が出版されていたことは知っていたけれど、敢えて、手にとらないでいた。

ちょっとした自分なりの反抗。

だって、私が『フラウ』に絵画のエッセイを連載した1994年から1998年まで、それから2003年にようやく本が出るまでの5年間、「絵画の本は売れない」という理由でどれだけの企画がボツになったか。

……反抗なんていうとウソ臭いかな。単純にすねていたのかもしれない。

時代とじょうずに寝ることができなかったことに。タイミングが悪いんだよ、私は、と。


でも、いつまでもすねていたら次の仕事ができないので、今私は10年の空白をひとり埋めているところ。

とはいえ、どの本も、なぜか私にとっては、無味乾燥。これはいったいなんだろう、と本気でそれこそ謎解きをしたくなるほどに。


んななかでとびぬけて面白い本が一冊あった。

若桑みどり先生の『イメージを読む』。


最初からひきつけられた。

ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の天井画について、

「ミケランジェロがほんとうに表現しようとしていたことはなんだったのか」といったことをいろんな角度から見てゆくのだけれど、そのなかでこんなくだりが。


「いまでも、私がいっていることはあいかわらずある種の人にとっては危険きわまりないことなのです。ある友人は、そういう学説は発表しないほうが無難だ、と忠告したくらいです。

ときには、ひとは命がけで描いたり、書いたりしてきたのです

それはいまでも同じことです。

でも、たとえ危険があったとしても、真実は追求しなければなりません。

いちばん恐ろしいのは自分のいっていることが真実ではないということだけです。」

そしてラスト。


「たとえそこに描かれた思想や信仰が今は滅びてしまい、意味を失ってしまっているとしても、絵は残ります。

絵の生命は死ぬことはなく、古びることもなく、それを人が見て美しいと思うかぎりつねに現在です。

それこそが芸術のほんとうの力なのです。」


画家が伝えようとしたことを理解するためには、画家がそのイメージにこめた意味や思想を理解することが必要、という立場に立ちながら、芸術のもつ「美」というエナジーにずっと魅せられているかんじ、人間の創ったものへの愛おしさ、畏怖……そういうものが行間からにじみ出ていてそれが私の胸をうつのかもしれない。


知識は、その人を、その絵を、理解したいと思えばもちろん必要。


そんなのあたりまえ。

けれど、根底に美とか愛とか情熱とか、人間の弱さとか強さとか、そういうのがなければ、やっぱり私はだめ。


大切な本が一冊増えた。そのことがとても嬉しい。

■あなたの声を見つけなさい■2012.12.11

41xrzjk2yelうっとりするほどに美しい文章を書く人はけっして多くはない。


簡潔で、おおげさな形容がないのに細部までイメージできて、書き手の呼吸までもが伝わってくるような文章。

ひらがなと漢字のバランス、句点、読点の選び方。

そういうことすべてに気を向けて書いている人はけっして多くはない。


さいきん資料としての本ばかり読んでいて、美しい文章に飢えていたので、休憩しようと本棚を見渡して、須賀敦子の『塩一トンの読書』を手にとった。


ふわん、と吐息が出てしまった。

ほんとうに好きだ、この人の文章。

早すぎた死がほんとにほんとに残念でならない。


須賀敦子を「恩師」とするうらやましい作家、青柳祐美子さんが、最後にエッセイを寄せている。そこに、須賀敦子が(おそらく文章による創作を志す)生徒たちに対して、いつも言っていた言葉が書かれていた。


Find your voice(あなたの声を見つけなさい)」


こころに染みるな。ゆり戻される感じがするな。


私の声は、たぶんまだ枯れていない。

そろそろ暗闇から抜け出してうたわなければいけない。そういう時期にきているはず。

■■恋よりも幸せなこと■■2012.12.7

51jxagg2nkl佐野元春がナビゲーターをつとめる番組を偶然に観た。

最初のほうで、その番組の趣旨みたいなものが流れて、ソングライターは現代の詩人だ、みたいなことを言っていて、「言葉」にフォーカスしているところに興味をもった。


それで、私が観た日のゲストがなかにし礼だった。


なかにし礼は作家としても知られていて、小説は読んでいないけれど、エッセイ『恋愛100の法則』は何度も読んだ。

そこからあらわれるなかにし礼という人は、強烈に恋愛体質の男だった。


ふたりのトークにはかなりひきこまれた。

身体が前のめりになるかんじ。


途中、いくつかの定型質問のなかで、もっとも幸せを感じることは?(楽しいことは?だったかな)があり、なかにし礼は即座に「恋」と答えた。


彼はもう70代半ば、聴衆は学生さんだったから、きっと、その答えを聞いたとき、彼らは、なかにし礼の「過去のもの」としてその答えを受け取ったかもしれなかった。


けれど、私にはわかる。


なかにし礼は、現在の自分のものとして答えたのだ。彼はいまでもきっと、恋に溺れる。


て、「恋」という答えを聞いた直後、佐野元春は質問を重ねた。


「いいものを創ったときとどちらが幸せですか?」


なかにし礼は即答した。


「いいものを創ったとき」。


そのときの彼の表情を見た瞬間、突然に胸をつかれてしまった。

そこには創作者の孤独があった。

(セリフはすべて私の記憶によるものなので、多少違っていると思う)


そんなわけで『恋愛100の法則』を読み返した。


「不倫」というタイトルのなかから、一部紹介。


「そう、人間には情熱というものがあり、それは時々ある対象をみつけて燃えあがらないではいられない。大抵の場合不倫という恋をする。

遅すぎた恋、ままならぬ恋、一緒に暮らせない恋、許されない恋、人の道に背き、つらく苦しく、胸かきむしる恋。嫉妬にもだえ、絶望に身を焼く恋。(略)


がしかし、いかに真剣だったとしても、この二人が結婚でもして一緒に暮らしたりすれば、退屈な日常生活が始まり、愛は確かに育っていくかもしれないが、やはり人間はそれだけでは満足はできず、行き場を失った情熱は「恋がしたい、恋がしたい」とわがままを言いだすのである

これは仕方のないことなのだ。

人間に情熱というものがあるかぎり。

男も女も。」


「倫」を「明鏡国語辞典」で調べてみた。

「人としてふみおこなうべき道」とあった。

以前は「不倫」という言葉にすごく抵抗していた。


恋愛そのものが狂気なんだから「人のみち」とか「道徳」とか「倫理」なんてないでしょう、なんで「不倫」になるわけ? 

というかんじの反発だった。


今は、ずいぶん抵抗がなくなった。

不倫は不倫。

契約としての結婚という制度がある社会に住む限り、不倫はグリコのおまけみたいに、もれなくついてくるもの。


日本中のひとに、「いま、恋愛中のひと!」って手をあげてもらって、そのなかで「いわゆる不倫をしているひと!」ってさらに手を上げてもらったら、何パーセントくらいになるのだろうか。


かなりの数になるのではないかと私は思っている。


みんな大なり小なり苦しんでいる。


恋愛しない退屈よりも恋愛で苦しむほうを選んだひとたち。


幸せを感じる瞬間が多く訪れますように。

そんなふうに誰かにいのりたくなる、けだるさが残る金曜日。

■■そういう仕事をしているか■■2012.12.5

20121204_190740強烈な不幸に充分に傷つき、それを執拗に記憶して、年月の光に当てるのが作家の仕事である。

その時不幸はもう生ではなくなり、そこに発酵が行われている。」


野綾子の『自分の顔 相手の顔』を久しぶりに読み返した。

そしてこの文章にたちどまった。

そういう仕事を私はしているか、と自問した。

自覚的にしているときもあるし、無自覚なときだってある。

充分に傷つくということだって、たぶん、知っている。

ただ、誰かに傷つけられた、という意識はない。

自分が傷を負った、という事実だけがある。

そして身体にそれが反映される。


私の場合、発酵が行われるまで最低10年はかかるみたい。

ということは今の傷がなんらかの形で表現されるとしたら、10年後。なんて簡単に言ってはみても、これ命がけ。


さいきん、いろんなことにひっかかる、つまづく。

一度は理屈をつくってクリアしたはずの必殺「クリスマス」。

このイベントも、今年はひっかかってしかたがない。

クリスマスは何の日? 

あなたがそれをお祝いする理由は? 

とみんなにインタビューしてまわりたいくらい。

これ、怒りに近い感覚かな。

でもそんなことはしない。

徒労に終わるから。

けれど、自分の芯にはしっかりとこの怒りに似た感覚を記憶しておく。それが私には重要なことだから。


ただ、周囲の愛しい人たちが、このイベントで心華やぐひとときを過ごせるなら、それでいいじゃない、と思えるようにもなった。


自分の考えをおしつけることと、自分の芯にその考えを記憶しておくことは違うから。

■■塩野七生に背筋が伸びる■■2012.9.26

91kvj9lgcdl自分で自分を守ろうとしない者を誰が助ける気になるか」(ニコロ・マキアヴェッリ)


なんだか久しぶりに、あのひとの本が読みたくなって買った本、『日本人へ 国家と歴史篇』。
あのひととは、塩野七生。

私とは真逆のイメージのひとだけど、そして熱狂的に好き好きー、というのではないけれど、こういうひとが同じ地球上に生きていて、創作活動を続けているというだけですくわれる、と思える作家のひとり。


ほかには五木寛之、中田耕治、曽野綾子がいるかな。


塩野七生が15年かけて完成させた「ローマ人の物語」は手を出していないけれど、そのほかの著作ならおそらく8割はもっている。


れで、今回の本、いきなりマキアヴェッリの言葉が飛び込んできて、もうそれだけで買ってよかった、と思えた。


そうだよね、自分で自分を守らないといけない。

それからはじめて「誰か」の存在を意識すべきだ。



このことを確認できたことだけで、本の価値はあった。

けれど、ほかにも、胸に響くのがいっぱい。


昨夜は次の日のことを考えずに一冊読んでしまって今朝は寝不足だけど、やけに明晰なかんじ。


一冊の本でこんなになれるなんて、やっぱり私は本の可能性を信じたい。どんなに出版業界不況と周囲に言われても、信じたい。


「読者に助けられて」という項目は、とくに胸に響いた。


「ローマ人の物語」を書きあげた塩野七生が人生最初で最後の読者との集いなるものをした、ことが書かれている。


15年にわたってローマの歴史を年に一巻ずつ出版できたのも、それを買いつづけてくれたあなた方がいたからです、と言いたかったのである


図書館で借りて読むことに異を唱えているのではない、図書館は便利だろうし、書く側にとっても読まれることは嬉しいというのは言うまでもない。


「しかし、読まれさえすればそれを書いた著者は満足する、というものでもない。恒産なければ恒心なし、と言うではないか。

売文業にとっての恒産は贅沢をするために必要なのではなく、きちんとした作品を書くには不可欠な、考える時間を充分に持つために必要なのである


「集まってくれた読者たちに伝えたかったのは、私の作品を買いつづけてくれたことにお礼を言うことだけではなかった。

本を買うことによってあなた方は、その本の著者の仕事を助成していることにもなるのです、ということも伝えたかったのである


「書物から知識を得たり感動したりするのはすばらしいことではある。

だがそれだけならば受身的であって、書物を買って読むという行為には、もっと積極的な意味もあることもわかってもらいたかったのだ


読んでいて泣きたくなってきたよ。

ほんとうにそうなのです、という想いがあふれちゃって、それからもっともっと書きたい、と思えた。

そのへんにある、内容のない本とは違う、きちんとした本を、小手先ではなく、全身で書きたいと思った。


先日優しい殿方が「品川駅構内の本屋さん」でみかけた画像を送ってくださった。嬉しい。

一冊の本にはいろんな方が関わっておいでです。営業さんの力も大きいです。感謝します。

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