■■フィクション・ダイアリー■■

☆「ジャクリーン・ケネディという生き方」発売です☆2014.3.20

514vzpwnykl__sx326_bo1204203200_みなさまへのご報告が遅れました。

毎度のことですが、発売直後の日光のお猿さん状態になってしまっているので。

それでも心やさしいお友達から、書店の嬉しい風景写真が届き、みなさまにご報告しなければ、と動くことができました。

ジャクリーン・ケネディ。

彼女は私にとって、最初は嫌いだったけどだんだん好きになって、最後にはとっても共鳴できて、自分と重なる部分まで見いだすことができた、不思議な存在でした。

生き方シリーズ第5弾。

シャネルともサガンともマリリンともオードリーとも違う、ジャクリーン独特の魅力が伝われば嬉しいです。

今回は書き終えてしみじみ思ったことがあって、その人の人生をジャッジする、裁くような見方は私は嫌いだし、できないんだな、ってこと。

あるひとの人生があって、そのひとが、「そのとき」何を考え、どんな行動をとったのか、そういうことを「知る」ことが好きなんだな、ってことでした。

そういうとき、私は人間を愛しいと思える、ってことでした。

みなさま。書店で見かけたら、ぜひ、お手にとってみてください。

やはり、この本も他の本と同じ、私の大切な一冊です。

カヴァ下にある言葉は、これです。

「したたかに生きるのは 悪ですか?」

■「大好きです」■2014.3.10

インプットしかできない日々にそんなに焦らなくなったような気がするのはよいことなのかどうか。

手当たり次第に本を読んで、映画を観る。

映画はたとえば「タンゴ・リブレ」であたらめてタンゴの激しさと恍惚の危険さを感じ、

「ヒステリア」でとってもためになる軽井沢夫人的「お勉強」をし、

「ナタリー」でファッションを楽しみ、

「アンコール!」で老齢の愉しみに想いを馳せ、

「25年目の弦楽四重奏」でベートーヴェンの弦楽四重奏曲14番にはまって毎日聴くようになり、

「グランド・マスター」でトニー・レオンを堪能し、

「ザ・レガシー」でマイケル・ジャクソンの繊細さを好きだと思う。

そんな日々のなか、最高に幸福なひとときがおとずれた3月10日の夜。

卒業文集に綴られた言葉に落涙。

そこには愛情としか呼べないものがいっぱいにあふれていて、私はこの3年間を、我が人生のもっとも試練的な3年間を想い、最後にイエス(肯定)の声を聞いたように思えて、そんな声を届けてくれた彼女に激しく感謝するのでした。

誰からどんな言葉を聞くか。

人生のなかで決定的な言葉を決定的な相手から私たち、受けている。

そんなに多くはないけれど、いままでにも、たしかに、あった。

恋人から、友人から、家族から。

記憶をたどって、当たり前の結論に達する。どんな言葉でも自分にとって決定的な人でなければ、ぜんぜん胸に響かないし、どんな単純な言葉であっても、自分にとって決定的な人であれば、危険なくらいに胸に響く。

■2014年3月3日■2014.3.3

たぶん、いろんなことはあっても……、激しくマイナスな感情や、いま目に見える傷や過去に作った多くの傷のなかで、息苦しい夜を過ごしても、翌日の夕刻に幸せな気持ちで桃の花が買えていれば、大きくうなずこうと思う。

花を抱えて、エレベーターで乗り合わせたひとに「綺麗な花ですね」と声をかけてもらうそのあたたかなひとときに、大きくうなずこうと思う。

ひなあられのかわりにしちゃおう、とおいしいチーズケーキを買ったときの、びっしりと偽りのない色彩が満ちているようなあの空気感に、大きくうなずこうと思う。

誰かに大切にされている時間がわずかではあっても、あって、そして誰かのことを大切に思う気持ちがたしかに自分のなかにあって、それが少しでも感じられれば、それでいい。

今日は雛祭り。

2014年の33日も、ほかの日と同じ、唯一無二の一日。

■問題を知的に理解する■2014.2.25

Img_20140214_075923自分が「問題」を抱えていて、けれど、それを認めたくないし、ハウツー本は嫌いだし、ましてや精神分析的に、いまの自分の状況を分析してどこかに分類されたくないし。

だから自然のなりゆきに身を委ねる。

問題があることから離れられないまま、「そのため」に観たわけではない映画や、「そのため」に読んだわけではない本から、何かを得られるのではないかとどこかで期待している。

ところが、あるときに問題が目の前にたちふさがる。

自分の涙だったり、どうしようもない言い争いだったり、嘔吐だったり、そうして「もはやこれまで」と思う。

そして、じっくりと、自分の問題と向かい合ってみようと、降参の涙のなか、「そのため」の本を探す。

それは問題を抱えてかなり悩んで苦しんでいる自分を認めたということ。

観念してその本を熟読する。

本の名前は差しさわりがあってあげられない。斉藤環さんという精神科医の書いた本だ。ネットのではなく、書店で実際に本を手にとって選んだ本がたいていそうであるように、この本も買って正解だった。

私は教えてもらうときには一度従順になることにしているから、今回もひねた視線をポケットにしまって(というより弱っているからあぶないくらい素直)、本を熟読した。

私が求めていたことがそこにあった。実り多い本だった。具体的なことは書けないけれど、ラストに、本を書く人間として、すごく共感した部分があった。

***

この本にいくばくかの「実用性」がありうるとすれば、それは何よりも当事者が問題の所在を知的に理解することを助けることにあります。関係性がはらむ問題を考える場合、理解がそのまま希望につながることが少なくないからです。

***

ここで、ほんとうにこの本を読んでよかったと思ったのでした。

「当事者が問題の所在を知的に理解することを助ける」という、これこそが私が求めていたものだったように思って、昨夜は自分が抱えている問題についての、自分なりの答えを、たよりないものではあるけれど、導き出せた。

人は誰しも問題を抱えていて、その問題を認めるまでがまず、つらくて、その次にその問題と向き合うまでがつらくて、でも、そこを超えれば、超える前とは違う景色が見える。

問題の所在を知的に理解しろ。

これが昨夜私が得た教訓。

写真はかわいい女の子からいただいたチョコレート。見つけた瞬間、どうしても路子さんにあげなくちゃ、と思って。なんて言ってくれて、嬉しかった。

■悪の法則■2014.1.15

51pvhraba3l__aa160_昨年末は『悪の法則』に支配されたかんじがする。

信頼できる女性たちから勧められて、でもすくいのない物語ですよ、路子さんは精神状態の良いときを選んで観たほうがいいです、なんていう「注」つきだったから、結局映画館に足を運ぶ勇気がなく、原作を購入して読んだ。

昔からホラーがだめというのとつながっているのか、私はむごい映像もだめだし、人がばたばた死んでゆく映画もだめ。

いちばんだめなのは性的快楽殺人関連かな。

だからこの映画は観なくてよかったのかもしれない。本でじゅうぶんに打ちのめされてしまったから。

……もしかしたら与えられる映像ではなく自分の想像世界のほうがずっとむごいのかもしれないけれど。

それでもコーマック・マッカーシーが創り出した世界の人物たちのセリフは面白かった。

たとえば、これ。

信頼できる女性が面白い言葉があった、と言って教えてくれた「モラル・ジレンマ」のあたり。

女性にもてる弁護士に対して知人が分析する。きみがなぜもてるかと言えば、モラル・ジレンマがあるからだと。女は男のモラル・ジレンマ、精神的パラドックスに惹かれるのだと。

そして男も欠点のある女に惹かれる。それはこの女を直してやれるという幻想をもつからだと。

……うーん、たしかにそれはあるな。

ただ、私自身がモラル・ジレンマを抱えている男性に惹かれるかといえばそれはあまりないかもしれない。

どちらかといえば、私を好きになってくれる人たちの多くは「この女を直してやれる」と思っているような気がする。

本のなかからセリフとしてひとつだけ抜き出すとしたら、これかな。

「その人を知っているというのは、その人が何を欲しがっているかを知っているということ」

私は彼のことを、彼女のことを「知っている」だろうか。

彼らが何を欲しがっているか知っているだろうか、そんなことを考えた。

それからコーマック・マッカーシーの頭のなかをぐるぐると想像して、寒くなった。

私は彼に共鳴しない。

「今日はこの冬一番の寒さです」って、早朝のラジオから流れてきた。

ようやく一冊の本を書きあげた。

昨日、けっこう長い時間いじっていた初校を編集者さんと一緒にチェックして、ひとだんらく。三月に出版予定。

■暗闇のなかのひとすじの光■2014.1.10

41hfyrwoz1l12月から1月にかけてのシーズンが一年のうちでもっとも嫌いになったのは、いつ頃だったのか。

とても幼いころのような気もする。

クリスマスとか年末年始が楽しかった記憶がほとんどない。

非日常であり、決まりごと、すべきことがたくさんあってそれに心身を合わせるのがつらかったようなそんな記憶のほうが、はるかに多い。

だからいつもこのシーズンは沈みこむ。

けれど今回は今までの人生のなかでもトップ3(ワースト?)に入るだろう、そんなシーズンを過ごした。

気づけばこころのなかで、「訴え」を繰り返している。

自分の主張を、繰り返している。

けれどそれは吐きだすことが許されないから飲みこむ。

いいえ、許されないからではなく、醜すぎて自分が許せないから誰の目にもふれないように飲みむのかもしれない。

飲みこみすぎれば体調を崩す。

とうぜん、頭にだって心にだってよいわけがない。

私はずっと、ひとりきりで年末年始を過ごしている人は、どのくらいの割合でいるのだろう、そしてそのなかで、ひとりきりでいることに安堵している人、寂しさを感じている人はどのくらいいるのだろう……そんなことを考えていた。

昨夕、期日の迫っている仕事を少しして、それから数日前に買ってあった『人間の運命』を読んだ。

この本を見かけた娘が言っていた。

「また、重いタイトルの本だね。もっと、軽いのも読んでみたら? この間プレゼントした『ガミガミ女とスーダラ男』とか。ママが読む本はみんな重たい」

人間の運命。

たしかに軽くはないタイトルだわ……。

それでも、もともと五木寛之が好きなこともあり、そして本の内容からしても、とても共鳴できた。

いま読むべき本だったんだなあ、と思えた。

だって、この本のおかげで、ようやくこうして、大切にしているブログに新しい文章を書こうという気になっている。エナジーがすこしわいてきたかんじ。

『人間の運命』、ノートに書き写した箇所はいくつかあるけれど、そのなかでも、「え! うそ! しょっく!」とこころのなかで絶望的な悲鳴をあげてしまったところはここ。

五木寛之は、宗教とか運命とかいった言葉に抵抗を覚えるけれど、それでもこころのどこかで宗教的なものをちらりと求めていたり、運命について考えなかった日は、一日としてなかった、と言う。その理由はこれ。

***

それは自分自身のなかの、意識と無意識のふかいところに、なにか不安なものをかかえこんでいるからだろうと思う。

心のバランスがくずれ、いつも自分が安定していない感じがする。

ときにはそれが、えたいのしれない鬱状態としてあらわれたり、体調に影響したりもする。***

五木寛之は、少年のころからずっとそうだったんだって。それで、こんなふうに言う。

***

年齢をかさねるごとに人は生きることの意味を理解し、覚悟がさだまってくるという。

それは嘘だ。

年をとると、心も体もさらに不安定になってくるものである。

***

ここで私は絶望的悲鳴をあげたのでした。

これからもっと不安定になるわけ? かんべんしてよ、と。

これを書いたとき、彼は77歳くらい。わあ……。

彼は、なかなか眠りにつけず、午前六時ごろに睡眠導入剤をのんでベッドに入る。体を動かすことがおっくうでならなかったり、人に対して高圧的になったりもする。

すべては心の不安が原因だ。それで、じゃあ、いま、何が欲しいのかといえば、

***

自分の心の不安やおそれは、そのままでいい。それを治療してほしいわけではない。心に厄介な重荷をかかえながら、心身に苦痛をおぼえつつ、それでもそれにおしつぶされずに毎日を生きていくことのできるエネルギーを求めているのである

***

そのエネルギーを彼は「闇を照らす光」と言っている。

ああ、私とおんなじだ。

暗闇を照らすひとすじの光。それを私も、いつも探している。しばしば見えなくなるから。

いつも安定しているなんて無理だ。いつも穏やかでいるのも無理だ。不安定が普通だから、それを受けいれて、そのうえで、ひとすじの光を見失わないようにするしかない。

見えなくなっちゃったら、それを探すことを、そのときの仕事とすればいい。そんなふうに思う。

けっして暗いとは思わないし、暗いのではない。それが人生なんだなあ、たぶん。

それにしてもね、指一本動かすのもできないような状態のときは、ほんとうにしんどいけれど、そんなときは、無理に動かさないで、動くようになるときを待つしかない。

そんな状態は異常なのではなく、自分自身の一部なんだから。

■誰に向かって作品を書くのか■2013.12.10

ネットで行われているあらゆることを私は恐れている。

だからフェイスブックもツイッターもしないし、このブログもコメントを受け付けないようにしているし、私自身について書かれたものは、極力見ないように心がけている。

もちろん、なかには、勇気づけられるものもあるけれども、それは稀なので、そんな私を知っている知人が、「私が見て気持ちがよくなるもの」だけを探してリンクを送ってくださっていた。

さいきん、その人が体調を崩されて、情報がなくなった。(どなたか奇特な方へ。こういう情報、ほしい……)

そんななか、今週のはじめに、うっかりとミスを冒してしまった。

とあるキーワードで調べものをしていたら、私の名前と「美男子美術館」が出てきて、つい、覗いてしまった。

そこには山口路子は小説なんてほとんど出していないのに自称「作家」、書かれていた。 ……作家です。こつこつと文章をつむいで、私自身の世界観を大切に大切にしながら作品を作っています。

その題材が恋愛であれ、誰か特定の人の人生であれ、絵画であれ、すべて私の人生における精神的な作業です。

命をかけていると言ってもいい。だから作家です。

さいきん小説を発表していないので小説家とは言っていません。

エッセイストという響きのもつ華やかなかんじにもなじめないし、コラムニストとは明らかに違うように思うから、もっとも自分がおちつくところで「作家」としているだけです。

ものを作り出す人、作家。間違ってはいないでしょう。

ちなみに普段、人と話すときに職業を聞かれると「ものかき」です、と言っています…… こんなふうに心のなかでつぶやいてから、ひどく腹が立って、珍しく強い怒りの感情が沸いてきた。

いつもはこの程度のことなら無視できるのに、いろんな状況がからんでいたのだろう、、怒りついでに勢いで、アマゾンの自分の本についてのレビューを見てみる気になった。

そうしたら、ひどいのがいくつかあって、それが絵画に関する本だったので、絵画に関する本を読む人=私のような書き方をする人が嫌い、という公式が成り立つのではないかとさえ思った。

レビューとは言えない、それは悪意の数行だったけれど。

ひどく落ちこんで、作品を発表するのが怖くなった。この感覚は初めてではないんだけれど。

それで、いったんは流そうと努力したものの、できなくて、いくつかのキーワードを入れて、同じような想いをしている作家の人たちを探した。

やはり同じような想いを抱いている人は当然いて、実際、闘っている人もいらした。

そんななか、胸に響いて、私をすくってくれたのが、小池一夫さんが書かれた記事。

***

ネットの匿名掲示板を作家は見ない方がいいとツィートしたら、批判も受けとめての創作ではないかと反論が来たのだが、僕はそう思わない。

元来、表現者は感受性が豊かだし、その匿名性を利用し、それを発言することで何も失う物が無い者達の礼儀無視の罵詈雑言に心乱れない者など何処にもいない。

中には有益な意見もあるが、それを見付ける為に、悪意の深淵を覗き込む事はない。

作家は、批評を受け入れる事も重要だが、それは、批評する人間としてスジを通したものだけで充分である。

「誰に向かって作品を書くのか」

創作者はそこだけは絶対にブレてはいけない。

***

泣きました。

そうです。「誰に向かって作品を書くのか」。

そこは絶対にブレてはいけないよ、私。

そして、「悪意の深淵を覗き込む事はない」。

それでもあまりにも動揺が続いているので、生れてはじめて、ヨガを体験してきた。

一番最初、仰向けになって目を閉じて、自分と向き合いましょう、いろんな悩み、考えなくてはいけないこと、それをいまは、少し離れたところに置いておきましょう……みたいな時間があるのだけど、その段階でほろほろと涙がこぼれて両の耳をぬらす状態の自分はやはりピンチなんだな、なんて思った。

それでも、じつに久々に身体を動かしたらすこし、楽な気持ちになれた。

そうしてようやく今朝、こうして、内面的事件を書くことができている。

写真は部屋に飾ってある妖精たち。娘が小学校4年生のときに私のマッサージというバイトでためたお金で、長い時間をかけて一人ずつ、買った妖精。

目を閉じてすこし微笑んでいる。

見ないでいることも大事。見ないでいるから微笑むことが可能だということもある。そんなふうに思う。

私は、私なりの精一杯でこれからも書いてゆくのだろう。

けれど、どんな場であれ、自分の立場を明らかにせずに誰かを批判するようなことは絶対に書かない。

卑怯な人。これは私がもっともなりたくない人だから。

■モローとルオーと愛しき人■2013.12.6

R「モローとルオー ~聖なるものの継承と変容」。

パナソニック汐留ミュージアム。

久しぶりに国内の美術展に出かけてみた。

絵に関する本などを書いているから、しょっちゅう美術展に出かけているように見えるみたいだけど、違う。

国内の企画展はちょっとかたくるしくて苦手。

混んでいたらもっと嫌。

混んでいるのが好きな人はいないだろうけれど。

それに順路順守ムードも嫌い。

モローもルオーも私は好き。

絵を観ながら、でも私はずっと、パリのモロー美術館のことを懐かしく思い出していた。

生前に、自分で自分の美術館を作ったモロー。

邸をそのまま美術館にしてしまったから、そこに足を踏み入れると、なんとも言いがたい空気につつまれる。

壁一面にだだだだと展示された作品のなかには、未完のものも多い。画家の意志によるものだ。

今回の美術展にも未完成のものがあった。

未完成のものを見せるというのはどういうことなのだろう、と考えた。

自分が成し遂げたかったこと、のなかにも見せるべきものがあるということなのか。

下絵とかデッサンとか、有名画家になるとそういうのも公開されているけれど、生前に本人が承諾した場合は除いて、亡くなったあと、本人の意思に関係なくそういうのも公開され、美術館に展示されたり画集に掲載されている画家のなかには、もしもそれを知る機会があったら、(精神世界の話になるけれど)、嫌だなあ、と思う人もいるだろうなあ。

そんなことを考えた。

人生において私は結果より経過を重視する。

その人が何をなそうとしていたのか、目標にむかってじたばたしたりあがいたり、諦めそうになったり希望をもったり。 そういう人間の熱みたいなものが愛しい。

けれど、それが芸術作品となると、芸術家自身が納得した完成品というものに価値を見る。

モローの弟子にあたるルオーは、なかなか作品が完成しない人だった。

納得できなくて絵具を何度も何度も塗り重ねた。

その姿を想像すると、愛しい。けれど作品としては完成品を見たい。

これって矛盾しているのかな。要求過多? わがまま?

パリのモロー美術館を訪れたのは、たしか1993の冬。

一人のパリだった。わあ、もう20年前だ。その翌年だったかな、再訪したのは。

時間旅行のメンバーの方々と一緒だった。今の100倍くらい傲慢だった20代後半のこと。

☆月刊「アートコレクターズ」☆2013/11/05

71tirqu6vil月刊「アートコレクターズ」11月号にインタビュー記事が掲載されています。

とっても若くて元気な女性編集者さんが書店で『美男子美術館』を発見、面白いと思ってくださったのでした。

私のくにゃりとしたお話を、骨のある文章にまとめていただいて、嬉しかったです。

ぜひ、お手にとってご覧ください。 そしてこの号の特集は「エロスの絶対領域」。

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偶然……だそうです。

■「変えられないもの」と「告白」■2013.11.3

このところ「変化を受けいれる」がテーマみたいだから、昨夜ベッドで読んだ本『「老子」新訳』(加島祥造)のなかでも、アメリカの自由主義神学者ラインホルト・ニーバーの言葉が胸に響いた。

変えられないものは、受け入れる落ち着きと、

 

変えられるものは、変える勇気を、

 

そして、この両者を見分ける知恵を、与えてください

この言葉を紹介して、加島祥造は次のように続ける。

「私は思い返してみると、反対のことばかりしてきた。変えられるものを変えようとせず、変えられないものを変えようとしてきたのでした。」

私にとっての変えられるものって何だろう。

変えられないものって何だろう。

周囲の人たちからの要求を頭に浮かべる。その要求にこたえるために、変えることができるのかできないのか。

これだけはぜったい手放せないことを考える。

それは本当に変えることができないことなのか、できることかもしれないじゃない。

こんなことをぐるぐると考えているけれど、このテーマはわりとつらくない。

なぜだろう。

……ところでさいきん嬉しかったことがありました。「告白」を……。

「路子さんとは一生つきあってゆきたいと思っています」と。

この種類の言葉を聞いたのはいつ以来でしょう。

歴史のはるかかなた……。

相手はひとまわり以上下の年齢のキュートな女性。

私自身、彼女の美意識や優しさ、強さを敬愛しているから、彼女からのこの言葉は、とても嬉しかった。

そしてそんなふうに思ってくれている彼女を裏切らない人生を歩きたいと願った。

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