■■サガン■■

■■感性と知性と寛容さと■■2011.4.26

110426_102001緑が恋しい。

植物を育てることなんて、すっごく苦手なのに、同じように緑を恋しがる娘にせがまれて、つい買ってしまった。

毎日水をあげたり、陽の光にあてたりしている。

そんなことをしていると、自分のなかに生まれた余裕にふと気づいて、小さな喜びを感じる。

心身の状態がわりとよい夜は、娘とゆっくりと話ができる。

話を聞いて「あげる」のではなく、聞かせて「ほしい」、対話を「したい」、という姿勢でのぞむことができる。

彼女の口からとめどもなくあふれでる数々の、彼女の人生の物語。

国語を学ぶ意義についてから授業をはじめた先生のこと、その授業内容、それに対して彼女が感じたこと。私の意見、感想。

彼女の私に対する分析。

そういえば、娘の国語の先生が最初の授業で生徒たちに伝えたかったことと同じことを私は『サガンという生き方』の終章で書いていた。

***

知性とは何か。

それはサガンが作品のなかで言うように、物事を多様な角度から見ることができる能力なのだろう。そして、それは「優しさ」に続いている。(略)

 

一つの事柄に対して、さまざまな視点で考えることができる。そしてその必要があれば、自分の考え方を変える柔軟性がある。

自由であることを願い、だから他の人の自由を尊重する。

人間を知りたいという欲求がある。

自分自身を見つめ疑うという作業をする。

そこから他人に対する「優しさ」が生まれる。(略)

 

作品からあふれ出るサガンのまなざし。

そのまなざしの奥底にしずかに美しく湛えられているものこそ、サガンの最大の魅力なのだと思う。

それは敢えてひとことで表現すれば、寛容さだ。

***

寛容さは生きてきた年数でつくられるものではない。

たぶんそれは感性……、感受性というものと関係がふかい。

知性が感性を支える」という信条を私は好んでいるのだけれど、わかくてやわらかな感性をそだてるものこそが知性であって、だからわかいひとたちは学ぶことが大切だし、わかくない私だって学び続けたい。

なぜなら、醜いより美しくありたいし、寛容なこころをもちたい、という想いから離れないでいたいから。

■サガンの「ある微笑」■2011.1.11

514wxag0yelサガンは慎み深く、愛の行為は好きだけれども、それについて露骨にしゃべることはもちろん、書くことも嫌った。

けれど『ある微笑』を読み返していて、この小説にはたくさんの肉体の愛についての描写があることに、あらためて感じ入った。

ヒロインは大学生のドミニック。

たとえば同年代の恋人ベルトランとのことについて。

「わたしはかれの香りをかいだ、わたしはそれをよく知っていた、そしてそれはわたしを感動させた。ベルトランはわたしの最初の情人(アマン)だった。わたしはかれの上で、自分自身のからだの香りを知った。いつも他の人たちのからだの上で、自己のからだを発見するものだ

たとえば恋におちたリュックとのキスの場面。長い描写のなかから少しだけとりだしてみると。

「わたしの顔をあげているこの手、この熱く、優しい唇、わたしの唇によくあった唇。かれはキスしている間、両手でわたしの両ほほを激しくしめつけた。わたしは両腕をかれの首に巻きつけた。わたしは自分がこわかった。かれがこわかった。その瞬間でないすべてのものがこわかった

たとえばリュックとの肉体の愛について。

「かれはまたわたしに自分の肉体をも発見させてくれた、かれは変な意味にではなく、興味をもってわたしの肉体について話した。あたかも貴重なものの話をするように

こういった書き方、表現。

その前の部分の「その瞬間でないすべてのものがこわかった」という表現をふくめて読者の経験値にゆだねる文章。

これはある意味、自分の読者に対する信頼であり、裏から見ればそうでない人たちを突き放しているのだけれど私は好き。

この恋物語は倦怠の色彩のなかでしずかに展開してゆく。けれど物語に自分自身を引っ張ってのめりこんでみれば、そこには人と人との出逢いについての熱い想いが息づいている。

決定的な人に出逢わなければ、そこそこの幸せのなかで憩いでいられた。けれど出逢ってしまったなら、もうそこで憩うことはできない。リュックと一緒にいることで、ドミニックは知ったに違いない。

いままで自分がどれほどさびしさのなかで独りもがいていたのか、どれほど熱情を欲していたのか、

ドミニックというひとりの女はリュックというひとりの男に出逢うために創られたのだと、「私はずっとあなたに逢いたかった!」のだと、知ったに違いない。

これが読書の喜びのひとつ。

何度も読んだ小説なのに倦怠の色彩のなかにヒロインの叫び声が聞こえたのは今回がはじめてだった。

軽井沢の朝はマイナス10度。空は白濁し細い枝が身動きもしない凍てついた朝。

■■それぞれのサガン、共感するヒロインは■■2010.12.3

51w7wpgs7l_3『サガンという生き方』を出版したことによる、出版前には想像しなかった喜びのひとつは、サガンの小説について語ることができるひとたちを発見できたことだ。

3040代の女性たちで、それぞれの思い入れがあり、それについて語る彼女たちは、それぞれの思い出を大切に抱えていてとても美しい。

「路子さんは、特にどれが好きですか?」

という質問も当然受ける。


エッセイは除き小説だけに限っていえば、『心の青あざ』『熱い恋』『ある微笑』『ブラームスはお好き』『愛は束縛』『一年ののち』……、だめ、ほとんどになってしまう。


もっとも自分自身と重ねて読めたのは、はじめて読んだときの年齢も影響しているけれど、『ある微笑』のドミニックと『熱い恋』のリュシール。


とくにいまはリュシールに共感する。


『サガンという生き方』では、『熱い恋』の次の部分を引用した。


「あなたは相変わらずいつものように黒い髪と灰色の眼をしていますね。とても美しい……」

リュシールは、人が自分の髪や眼の色について、容姿についてすらもしゃべるのをもう長いあいだ聞かなかったことに気づいた。


「気づいた」。


それからどうするかで人生の色彩が決定する。

それぞれの色に染まる。

一度しかない、しかも短いかもしれない人生。

サガンがいうように「幸福なときが正しくて不幸なときは間違っている」のであるならば、できるかぎり正しいところと近いところにいたい。


ところがかなしいことに、ひとは、ときどき、自分が不幸な状態であることに気づかない。認めない。許さない。


それは愚かさのせいではなく、自己防衛本能のせい。


リュシールは、「自分自身を偽る」ことをしながら生きることができない女性だった。彼女は他の多くの女性たちがしない選択をする。


外は雨。雪ではなく。変に気温が高い金曜日。今週は一度もメイクをしなかった。久しぶりにきれいになりたい気分。

■■サガンの言葉と信仰と恋■■2010.10.29

81sj0zq8lkl__sl1500_原稿を書いていると、ときどき眼がかすむ、瞼を閉じて深呼吸をする。ふとサガンの言葉が浮かんだ。

***

ひとは何かをするときに、「どうしてそれをするのか」、その理由や目的を考えないで、「どのようにすればよいか」と方法ばかり考えるようになってしまいました。

***

私も、そこに陥らないように。

「どうしてそれを書くのか」を忘れ「どのように書けばよいか」と方法ばかり考えないように。

サガンの小説を、ひそかに愛読していた遠い日の知人を思い出す。

彼はクリスチャンで、三十歳を越えてから信者になったと言うから、その理由を聞いたら、すこし照れながら、「いつも誰かの目がある、誰かに見られている、そういう状況に身を置きたかったんだよね」と頭の斜め上あたりを指さして言った。

私は「わかりますわかります!」と同調した。「恋とそっくりです。恋をするとそのひとのまなざしがいつも、このへんにあって(頭の斜め上あたりを指さす)、いつも見られているようなかんじになりますから!」

彼は、まじまじと私を見て、「信仰と恋を一緒にするかね、この子は」と言って私の頭を撫でた(注:私はそのころ若かった)。

彼、元気かな。たしか私よりひとまわりくらい上だったからもう五十代後半。サガンの本、『サガンという生き方』に気づいて、手にとってくれたら嬉しい。書きながら、私は貴方のことを思い出していました。

■■「サガンという生き方」発売です☆■■2010.10.10

51xgxsqv7nl108日、『サガンという生き方』が発売されました。

店頭に並びはじめて、いろんな方から「あの本屋さんのこういう場所に、こんなふうに置かれていたよ」といった情報をいただいています。

ありがとうございます。嬉しいです。


一緒に暮らしているひとから一気に読んだよ面白かったよ、といういつものような無難な感想をもらって、

「どんなところがサガンと私、似ていると思った?」

と尋ねたら、笑いながら

「びびりやのところ」

と言いました。


出版後の反応、批評非難評判といったところに異様に弱い部分が似ているのだと。


これはあっていて、ですから、ほんらい新刊を売るために一番活動的にならなければならないこの時期、一番こもってしまいます。

なんだかこわくて本屋さんにすらいけないのです。


それでも『サガンという生き方』、出版できたことがとても嬉しいです。

『ココ・シャネルという生き方』を出したときだってもちろん嬉しかったけれど、シャネルの場合は、シャネルの名前で勝負できるという意識がありました。

今回のサガンは、「サガンって誰?」という声が聞こえてくるなかでの執筆だったから、どの程度の反応があるのかな……そんなかんじです。


サブタイトルは、「破滅を受け入れる女のエレガンス」!

これは担当編集者の岡田さんと、長電話して決まりました。


私はとても気に入っています。8割は岡田さんのセンス。岡田さんありがとう。


『サガンという生き方』、そのシーズンの、私の全部で書きました。

書きながら涙したことも少なくありませんでした。

それほどまでに思い入れがありました。

読んでいただけたら嬉しいです。

■■精神的な休養■■2010.3.20

___3「あなたへ。疲れました。疲労困憊。もう人に会うのが嫌になったので、一人で、二、三日出かけてきます。

どこへ行くかは決めていません。パリを離れることはないと思います。

とくに深刻な事情があるわけではないけれど、私にはどうしても精神的な休養が必要なの。

レジーヌの店はキャンセルしておいて。さもなければ、別の人と行ってもかまわない。できるだけ早く帰ってくるつもりです。あなたにキスを。心配しないでね。飲みすぎに気をつけて。では」

サガンの置き手紙。当時のパートナー宛。

サガンの多くの言葉のなかで、このところ、この置手紙があたまをぐるぐるまわっている。

そのときの彼女の精神状態が手に取るようにわかるような錯覚のなかで、ぐるぐると。

子どももいてパートナーもいて、でも、そのひとたちの面倒を見てくれるひともいて、仕事に専念できる環境で、なんという身勝手な行動!……と言うひともいるだろう。

でも、彼女の仕事が仕事だから、ほら。と、批判しないひともいるだろう。

じゃあ、そういう種類の仕事でなければ、たとえば肉体労働とか、主婦だとか、そういうひとたちには、「とくに深刻な事情があるわけではないけれど精神的な休養が必要なの」は許されないのだろうか。

作家という職業は、それがサガンくらいのひとになれば、なおさら、ある意味自由が認められて、ときどき、「精神的な休養」という名の息抜き、気分転換、自分自身を取り戻す作業というものができる。

でもそうでない種類のひとたちで、「精神的な休養」を切実に望んでいるひとが、どのくらいいるのだろう、ということを考えた。

そういうひとたちは、どんなときに、どのような理由で「疲労困憊」し、周囲の無理解に苦しみ、人生を恐れているのだろうかと、聞いて回りたい衝動が突き上げてきた。

世間は今日から三連休。軽井沢はよく晴れて、風が強い朝。