■■中田耕治■■

■「お梅さん」 オノト・ワタンナ 中田耕治訳■2011.7.29

110729_111201机の上に置いておいたら、娘が「この絵、好き」と手に取った。

すごく綺麗、としばらく眺めていた。

その絵を描いたのは吉永珠子さん、娘の学校の卒業生なのだと言ったら、嬉しそうだった。

中田耕治、翻訳最新刊。

1875年カナダ生まれの閨秀作家の処女作、という意外性。「あとがき」で作家は書く。

私は、いまの日本語に欠けているものを表現することによっておのれの翻訳の価値が生じると思っている。

日本語が失ったものについて、私がはっきりした知識をもっている最後の世代だからだろうか。

私たちの失ったものはけっしてわずかなものではない。だから、私は自分に欠けたものをアメリカの一少女の作品をつうじてあらためて見つめようと試みたに過ぎない」

日本語の深さというものにふれることのできる本。けれど、内容は小難しくない、いわゆる純愛。

「愛」に殉じたひと、「愛」に身を投じたひと、自分がすっごく汚れていると泣きたくなるほどに、この物語世界のなかにはまっすぐな愛があった。

そしてところどころ、はっとする言葉に出会う。

物語を切り離して、それが言葉として力をもつという表現力のなせるわざ。

いくつか挙げると。

心から愛する人が自分に不信をもったり苦しんだりすれば、ナイフで切りつけられたような痛みをおぼえ、心が締めつけられる。ところが、相手を愛していない場合は、いらだたしいだけなのだ

「愛するとなれば身も世もあらず愛するか、まるで無関心なままか、はげしく憎むか、いずれしかない」

「女の魅力をすべて知りつくしたと男が思った瞬間、愛というものは冷めはじめる。愛情があれば、たえず相手の新たな魅力を発見しつづけるものだし、さらにいえば、すでに知りぬいたはずの魅力さえ、つねに新しく感じられるものなのだ」

ひとを恋すると、いたるところで、生きとし生けるものすべてに愛情をそそぎ、しあわせをわかちたくなる

たかが恋愛、されど恋愛。

命を奪うほどの力をもつ、恋愛という魔力。

そんなことを想い、からだがふるえる朝。

■■あなたにとってのゆりかごは■■ 2010.11.17

_9_敬愛する中田耕治先生の「文学講座」、月に一度の数時間は、いまの私にとってこのうえなく重要な時間となっている。

先生のお話はひとことも聞きもらしたくないと思うからメモもとれない。
テキストはあるけれど、先生は原稿なしでお話をする。
あらかじめ紙に用意された言葉と、その時間その場所で生まれた言葉との違いを、いつも思い知らされる。私のトークなどあまりに薄っぺらい。

今月は「吉行淳之介」だった。メモもとれない、と言ったばかりだけれど、あまりにも強烈に突き刺さってきて、ペンを走らせてしまった。吉行淳之介について先生がおっしゃった言葉。

一種の極限状態を生きなければならなかった文学者

もうひとつ。

文学的生命をかけてのノン

強烈なのに、刺激的なのに、自分の怠慢さを指摘されているというのに、不思議と私はゆりかごを思った。

泣きそうになってしまった。

土曜の午後の吉祥寺。あまやかでなつかしい体験だった。

あなたにとって、ゆりかごのイメージはどんなですか。たずねてまわりたい気分。

作家中田耕治のサイトはこちら。

■■中田耕治の「誘惑」■■ 2010.10.15

Yuどんな男でも、その胸のなかには、自分との関係で、すべての女たちと違った一人の女のための場所をとってあるものだ

性愛を描いて、なけるほどに生をうたえる作家はとても少ないと私は思う。「誘惑」を読んで、私は涙を流さずに泣いた。

そこに人間の美しき多様性があり、かなしさ、いとしさがしずかに、淡々と描かれていて、淡々としているのに、とても熱く叫んでいるように、感じられたから。

そして私は、私も、自分のうちにわきおこり、育ちつつある奇跡の物語を書きたいとほとんど祈るように思った。ずいぶん時間がかかるかもしれないけれど、いつかきっと、書く。

いくつもあるなかで、とくに残った一文をもうひとつ。

何かを見つめるということは、このうえなく孤独な行為のような気がした

最近、私は何を見つめただろう。

息をつめて、すべてを瞳のうちに吸収してしまいたいと願うほどに見つめたものは何だろう。

秋の朝陽が、まだ色の変わらない木々の葉をつきぬけるように洩れて、少しだけ開いた窓からは澄んだ空気がすうっと入り込んで、部屋には「THE HOURS」のサントラが流れて、一日が始まろうとしている。

■「ルイ・ジュヴェとその時代」 中田耕治 2010.8.4■

3534_22000枚を越す大著だから、たとえば『ココ・シャネルという生き方』のざっと10冊分。2週間かけて一冊の本を読み続けたのは初めてだ。

いまは自分の仕事もけっこう忙しいから昼間読むことを厳禁、夜だけにしたから日にちがかかったのだが、私がこういう読み方をすることはあまりないから家族の関心を引いたようだ。

もちろん分厚い本を読むことだってあるけれど、それは資料のためだったりするから、欲しいところだけを拾って読む。だからどんなにかかっても数日の命。

まだ半分? お、ようやく終わりそうだな。

そんな声をかけられた。

そして昨夜終わってしまった。

一九五一年八月十六日午後八時十五分、ジュヴェは死んだ。享年六十三歳

ここで私はこみあげてきてしまった。ルイ・ジュヴェという人の生きる姿勢、芝居にかける情熱、女性をふくめて周囲の人たちへそそぐまなざし。

それとじっくりと寄り添ってきたから、読みはじめたころはぜんぜん知らない人だったのに、いつの間にか、こんなに身近になって、60年も遅れて、ジュヴェの死を悼んだ。

「ジュヴェの墓はモンマルトル墓地、薄幸の『椿姫』アルフォンシーヌ・プレッシイの、今は荒れ果てて見るかげもない墓のすぐ裏側にある。ジュヴェは夫人のエルズ、ふたりの間に生まれたジャン・ポール夫妻とともに眠っている」

いつか行って、ジュヴェが好きそうな花を選んで供えたいと思った。

なんて、ちょっと真面目に感動してもいるのだが、読んでいる途中どうしてもジュヴェが観たくなって『女だけの都』を購入してしまった。そしてジュヴェの色気にふらふらに……。

Images唐突だけど、ジェラール・フィリップとはぜんぜん違った色気がある。ふたりが私の前に立ったらどっちを選べばいいの。と妄想が。

もっとジュヴェを観たくて続けて『北ホテル』購入。これは今の仕事がひと段落したら観るつもり。それまで我慢。

それにしても中田耕治の、ルイ・ジュヴェへの想いには胸を強く打たれた。そしてあらゆるところで見られる、するどい視線に何度も立ち止まった。ページが何箇所も折られ、たくさんラインが引かれている。

たとえば、ジュヴェの恋人であった女優マドレーヌの恋に対しての視線。

相手こそ変わったが、その恋は本質には変わってはいない。

 

いつも、演劇、映画でめぐりあった才能のある男性に接近して、自分でも気がついたときには恋をしていた。

どの恋にしてもおなじくらいの真実で、長続きがするはずだった。しかし、マドレーヌの恋は続かない。
彼女にとっての恋とは自分よりすぐれた相手に自分を結びつけようとする願いに過ぎない。それが首尾よく男と女の性という磁場で果たされたとき、消えるのが当然といったものだった。

ただ、いつもその願いがひとすじに相手に向けられるだけに、自分でも純粋な恋をしていると思い込む」

どうだろう。私は純粋な恋をしていると思い込めるのかな。

ようやくちょっと言葉が自分のなかに戻ってきてほっとしている。軽井沢はハイシーズンを迎えているようで、外出をほとんどしないから私は家族の送迎時、駅方面しか知らないけれど、かなり混雑している。

■■たたかっている気分■■2010.2.10

_s_気持ちが悪いほどに暖かな一日だった昨日の早朝の気温は6度。ラジオによると、軽井沢の場合、これは5月上旬の気温なのだそうだ。5月上旬といえば自分が生まれた季節で、でも、ああ、こんなに寒いんだ、5月上旬って。と軽井沢の5月上旬を暗く感じてどこかに逃げたくなってしまった。

そんな夜に、枕もとの坂口安吾。またしても発見があった。

「作家論について」というエッセイで短いのだけど、ぎゅっと美味しさが凝縮されているような名エッセイだと思う。(もう好きで好きでしょうがないひとだから、どんなのでも抱きしめたくなる状態なのだが)。

安吾は「他人の伝記を書く」ことについて、「自分を表現するために、なぜ他人の一生をかりるか。文学の謎のひとつが、ここにも在ると思う」

分厚い全集をぱらぱらっと繰って、読み始めたところにあった一文だったから、安吾が迷える子羊(少々年齢がいっていしまっているが)状態の私に、アドヴァイスをくれたのかと、一瞬本気で思ってしまった。

聞いたこともない安吾の声が私の耳にそっと、けれど力強くささやく。

「僕は、できるだけ自分を限定の外に置き、多くの真実を発見し、自分自身を創りたいために、要するに僕自身の表現に他ならぬ小説を、他人の一生をかりて書きつづけようと思っている」

この部分、なんども繰り返して読んで、眠りに落ちたのだが、いま、これを書くためにちゃんと読み返したら、ラストのところに次のような文章があった。

「さて、僕は本題の作家論を言い忘れたが、小説の場合に自伝とか他人の伝記とかいうものがあるとすれば、評論家にとって、作家論というものは、小説家が他人の伝記を書くことと同じようなものではあるまいか。
もしそうだったら、作家論というものも、他人をかりて、自分を発見し、とりだすための便宜上の一法であろうと思う。
ただ作家の姿を探すというだけの労作なら、創作集の無駄な序文のようなものだ」

I読んだ瞬間に、これまた敬愛する中田耕治の『五木寛之論』を思い出した。

ここには「自分の発見」が色濃く流れていた。だから好きだった。夢中で読んだ。

今、私も自分を創作し、考え、生きるということを塗りこめながら、他人の一生を借りて書く。

それにしてもほんとに孤独というのは、なんともいいいがたいほどに、試練。

外は霧が深くたちこめて私を誘うから、窓に背を向けて仕事をする。