■■坂口安吾■■

■なるべく多くの魂につながりたい■2013.11.26

Img_526ようやく原稿がのってきた。

休憩タイムに坂口安吾を読む。ぼろぼろになった『堕落論』。

今日は「大阪の反逆」からの箇所が胸に響いた。

好きな言葉だから以前に書いたことがあるかもしれない。

「我々が知らなければならぬことは、身の上話のつまらなさではなく、身の上話を語りたがる人の心の切なさであり、あらゆる人が、その人なりに生きているおのおのの切なさと、その切なさが我々の読者となったとき、我々の小説の中に彼らがそのおのおのの影を追うことの素朴なつながりについてである」

好きだなあ、安吾。

つづけて「なるべく多くの魂につながりたい」という言葉もある。

縁あって出会った人たち。

私と会ったことで嫌な想いをする人もいるし、また、何かを得たと言ってくれる人もいる。私に会いたいと言ってくれる人たちと私はつながりたいと願う。

本もそうだ。会ったことはないけれど、私の本に、強く共鳴してくれる人がいたなら、きっと私とその人の魂はつながっている。そう信じて、書き続ける。

■自分だけのもの■2013.11.9

ほんとうに人の心を動かすものは、毒に当てられた奴、罰の当たった奴でなければ、書けないものだ。(略)生きている奴は何をしでかすかわからない、何もわからず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリギリのところを這いまわっている罰当たりには、物の必然などはいっこうに見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それがまた万人のものとなる。芸術とはそういうものだ。」

久しぶりに坂口安吾。

これは「教祖の文学」から。

なにか心を撫でられた感じがするな。

私が経験しているいろんなことは、自分だけのものを見るためにあるのかもしれない。

だとしたら、そういう自分を、人生をひきうけなければ。

安吾のこのエッセイには宮沢賢治の「眼にて言ふ」という遺稿が紹介されていて、安吾も好きだから紹介していて、私も胸うたれる詩。

***

だめでせう

とまりませんな

がぶがぶ湧いているですからな

ゆふべからねむらず

血もでつづけなもんですから

そこらは青くしんしんとして

どうも間もなく死にさうです

けれどもなんといい風でせう

もう清明が近いので

もみぢの若芽と毛のやうな花に

秋草のやうな波を立て

あんなに青空から

もりあがって湧くやうに

きれいな風がくるですな

あなたは医学会のお帰りか何かは判りませんが

黒いフロックコートを召して

こんなに本気にいろいろ手あてもしていただければ

これで死んでもまづは文句もありません

血が出ているにかかはらず

こんなにのんきで苦しくないのは

魂魄なかばからだをはなれたのですかな

ただどうも血のために

それを言へないのがひどいです

あなたの方から見たら

ずいぶんさんたんたるけしきでせうが

わたくしから見えるのは

やっぱりきれいな青ぞらと

すきとほった風ばかりです

***

死にさいして、血を吐きながらきれいな青ぞらとすきとおった風を見る賢治。

そしてそれに感動する安吾。

私はふたりのそれぞれの心の動きを想像する。

するとたまらなく愛しくなる。人間に対する希望がすこし感じられる瞬間。

■■山本耀司と坂口安吾■■2013.9.13

41ilmpqguklファッションというのは物書きでさえ書けない、言葉にできないものを形にする最先端の表現だと思っています。だからどんなに知性があってもファッションをばかにしている人は信用できない。たとえ評論家や建築家であってもです。着ている服でその人が本物かどうかわかります


「服を作る」モードを超えて 山本耀司 宮智泉(聞き手)を読んだ。

1943年生まれ。この本を読んでびっくりしたのは、坂口安吾、中島みゆき、ヴィム・ヴェンダース、ピナ・バウシュなど、彼が好きな人たちとして名前を出す表現者、そのほとんど私も好きだったことだ。


彼の坂口安吾に対する想いは深く、20年以上前、欧米のジャーナリストに自分のことを言葉で伝えようとしたとき、坂口安吾の「堕落論」と「日本文化私観」を英訳して読んでもらったくらい。

自分のことを伝えるときに坂口安吾の作品を使う。

これはそうとう作家を愛し、自分の心の奥に共鳴するものをもっていなければできないことだろう。

私はいちおう物書きだからしないけれど、もし違う形で何かを表現することをしていたら、山本耀司と同じように坂口安吾を使うだろう、それから大庭みな子、アナイス・ニン。


山本耀司は言う。


「彼の作品には、表現者である以上、インモラルなことに対しても深入りしないと、見えるものも見えないと書いてあった。僕が当時、思い悩んでいたことが、何の恥じらいもなく書いてあったんです。生きた時代は違うけれど、芸術とか文化は時代に関係なくつながるところがある。自分が考えていたことが言葉になっていた。」

「作家の坂口安吾の言葉を借りれば「それを表現しないと、死ぬしかない」というくらい追い詰められているのか、という自分への問いかけが作家にないと、本当にいい表現はできない。」


「服作りに対する思いはまったく衰えることがありません。坂口安吾ではないけれど、命と引き換えにものを作っている。自分のさだめに自分を捧げている。そういう風に決めてしまえば楽です


と、坂口安吾がちらほら登場する。

そう、坂口安吾は「命がけ」の人だった。

私は最近もある編集者さんにお話ししたのだけれど、今書いている本が最後になってもいいの? と自問し、いいよ、と答えられる本を書きたい、と思っている。


100パーセントなんて奇跡なので、70パーセントその状態であれば、幸せだ。


一冊だけ100パーセントのときがあった。あのときは、どうかこれを書き終えるまで死にませんように、と祈るように毎日を生きた。一生に一度そんなのがあればじゅうぶんと思うか思わないか。


現実は厳しい。その厳しいなかで、いったいどのくらい自分の信念に近いことをしてゆけるのか、命と引き換えにしてもよい、と思えることをどのくらいできるのか、私の人生の幸福はそういうところにある。


山本耀司の服が着たくなったな。まだ、似合わないかな。

以前に、こんなコラムを書いていた。「山本耀司、一着の服」。お読みください

■■ネガネガとポジポジ、そして安吾■■2012.11.9

Ki上田にお住まいの殿方からメールが届いた。

ヘップバーン、おめでとう。しっかり息継ぎしながら、ますます輝いてくださいね」


返事を書いた。


「息継ぎの方法、おしえてください(涙)それからだんだんしなびてきて、輝きって何? ってかんじです(号泣) 出版関連のイベントとか新刊が出るとそれにからんだもろもろのことで、神経がかなしい情況です。

やっぱり調子にのってあれこれ企画しなければよかった、わたしのばかばかばかっ、とネガネガしております」


ご返事が届いた。


「らしいですね、路子さん。無理にポジポジしてもきっと逆効果でしょうから気が済むまでネガネガするのも手です。息継ぎの仕方も得意ではなさそうですね。できるまでずっと息を止めてみていてください。酸素が必要だと体が教えてくれます。萎びてきているはずないでしょ、あなたが。十分輝き続けていますよ。目の前の鏡、少しくもっているでしょ!! ヤマグチ・ミチコという生き方、これからが見ものです。大丈夫よ、戦ってれば。」(以上、少々脚色あり)


ああ。安吾の言葉だ。


「しかし、生きていると、疲れるね。

かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。

戦いぬく、言うはやすく、疲れるね。

しかし、度胸は、きめている。

是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。

そして、戦うよ。

決して、負けぬ。

負けぬとは、戦う、ということです。

それ以外に、勝負など、ありゃせぬ。

戦っていれば、負けないのです。

決して、勝てないのです。

人間は、決して、勝ちません。

ただ、負けないのだ」


ここまでくると座右の銘、といってもいいくらいだな。

私の好きな人生の真実がある。

絵は、ワッツの『希望』。軽井沢時代からずっと私を支えてきた絵。まだまだいける。戦い続けることがだいじ。

■■「いいこと」と「悪いこと」と疑いをもつこと■■2012.11.1

41fw1fc4zhl筒井康隆の『断筆宣言への軌跡』に、坂口安吾についてふれている箇所がある。

***

安吾さんを論じるときによく言われるのは「悪」という問題ですね。

私は「悪」は昔から現在に至るまで文学上の重大なテーマであると思ってます。


常識的に悪いとされていることは本当に悪いことなのかどうか

いわゆる「いいこと」とされていることは本当にいいことなのかどうか。

もしかするとその悪いことは非常にいいことかもしれないじゃないか。

誤解を恐れずに言えば、人殺しも含めてです。


そこまで原理的に考えるのが我々作家だと私は思ってます


ただ、安吾さんはもうそういう認識、善と悪というふうに分けて考えるということすら、安吾さんの意識の中ではなかったのではないか、そこまで到達してたように思います。

***


常識というものに疑いを抱かなくなったらおしまいだな、と思う。


疑いは歳を重ねるにつれて強まり膨張し続けているけれど、それを態度にあらわしたり、口にしたりすることはずいぶん少なくなった。

どんどん諦めているんだ、きっと。


だからせめて表現すべき場面ではするどく自分の疑いを表現したいと思う。


かなりセンチメンタルな朝を迎えたけれど、この本のおかげで、切り替えに成功。仕事をする。

■人生の花、というにはあまりにも重い■2011.7.5

Images9dfgeqjsマリリン・モンローの伝記、何度も読んだ本なのに、訳者あとがきをじっくり読んだのは二度目。

一度目はもう忘れてしまったほど前のこと。

今回驚いたことがあって、それは訳者あとがきの最後に、ある人物の生き方について、訳者の道下匡子さんが、私が敬愛する坂口安吾の言葉を引いていたことだ。

***

彼女の一生は、坂口安吾の有名な言葉、

孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。いかに退屈であろうとも、この外に花はない

を私に思い起こさせます。

***

私は、安吾は恋愛に生きた人ではないと私はとらえている。そして私にとっては「人生の花」、という形容はあまりにもかるいように、今は思う。

道下匡子さんは、ジョージア・オキーフの自伝を出版させた人物としても有名で、私はその本をもっている。すぐに読みたかったけれど、どこかの段ボールのなかだからすぐには無理なのが残念。

坂口安吾といえば、このところ、街を歩いていると、安吾がよく言う「魂の問題」という言葉が人生の中にある人はどのくらいいるのだろう、なんてことを考える。

向こうから歩いてくる携帯電話に向かって大声で何かを言っているスーツ姿の人は? 太い素足で猫背で歩いてくる女の人は? うつむきかげんでぼんやり歩いているショートカットの制服の少女は?

魂の問題、あるのだろうか、あるとしたら、どんなのか、私は知りたい。

■■好きなものを好きだと言う■■2011.1.17

110117_122401さいきん読書に埋没できない。ほかのことをすぐに考えてしまって集中できない。

こういうときは長編小説はだめだから、ベッドサイドにいつもある安吾の本を手に取る。

全集14。さまざまなエッセイが収録されている。読む度に、なにかしらに出会える。

昨夜は「続堕落論」を何度も読み返した。たちどまった箇所は「人間の、また人性の正しい姿とは何ぞや?」から始まる一文。

欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ 

好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物ををぬぎさり、赤裸々な心になろう、

この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一の条件だ」

「欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ」

という安吾の言葉に、「それはそうなんだけど……」と、「好きなものを好きだという」に、「そう言えたらいいのにね」と、言うようなひとにはなりたくないと思っていた。

このことを思い出した。いいえ、思い出したというやわらかなかんじではなく、「あなた、そうだったでしょ」といったかんじで胸に突き刺さってきた。

絶望に似た空気がどっと天井からおりてきたみたいだった。 

いつのまにか、がんじがらめになっているのかもしれない。

自分自身でつくりあげた目に見えない綿あめみたいなものにまかれてしまっているのかもしれない。

それはやわらかくてすこしずつまきあげてゆくから、まいている実感もまかれている感覚もない、気づけばそのなかにすっかりとらわれて、もう抜け出られなくなっている。

嫌だ。 

安吾の言うように赤裸々な心になって、自分自身の赤裸々な姿を突きとめ見つめないと、いま、それをやらないと絶望の度合いはおそらく深まるばかり。

でもこれってかなりしんどい作業。そんなことをしないでも楽しく生きてゆける方法があったら知りたい。 

早朝の軽井沢は氷点下13度。庭は雪に覆われて、風がつよくて木々の枝がゆれている。とても冷たそう。こんなにひとはだ恋しくなっても許されそうなほどに冷たそう。

■■嘘つき■■2010.10.14

Gu好きな季節がはじまったというのにすっきりしない。

なじみのある自分自身の性質だから、もうこういうのに戸惑いはしない。

いろんなものの助けを借りてなんとか日常に適応している、と信じたい。

ふだんは桃色に見えるものが、よどんだ色に見えたり、普段はなんなくジャンプしてよけられる障害につまづいてしまったりするようなかんじ。

突然ひと恋しくなって、あまりしないメールなんかを送ったりする。返信がすぐにないだけで孤児のようになるのだから、やめればいいのにやめられない。

私の新刊を読んでくれないだけで落ち込む。それで愛情がはかれるはずもないのに。

そんななか久しぶりの安吾さま。

さいきん、彼に対するまなざしが変わってきて、彼の言うことすべてに無条件にうなずいたりはしなくなっている。ちょっとさびしいけれど仕方がない。気持ちは変わるものなのだから。

移り変わる季節をどうしようもできないように、これもまた。

安吾さまの場合、とくに恋愛に関しては私とは決定的に違うところに、彼はいる。

出逢っていてもきっと情熱恋愛的な関係にはならないだろうな、と勝手に妄想している(もちろん安吾の気持ちは棚上げ状態)。

昨夜、安吾とともに眠りについた。

「僕はただ、実際に在ったことをありのままに書いているのだけれども、それだから真実だとは僕自身言うことができぬ。なぜなら僕自身の生活は、あの同じ生活の時に於ても、書かれたものの何千倍何万倍とあり、つまり何万分の一を選びだしたのだからである」

選ぶということには、同時に捨てられた真実があるということを意味し、僕は嘘は書かなかったが、選んだという事柄のうちには、すでに嘘をついていることを意味する。」

「自伝的小説」についての箇所。私はよく「あの小説のどのあたりがフィクションでどのあたりがノンフィクションなんですか」という問いを受けるけれど、こういうことなのだ。

小説は別としても……、選ぶという行為だけでそうなのだから、大嘘つきということになるな私は。

さらにページを繰る。

けれども、およそ人間は、常に自分自身をすら創作しうるほど無限定不可欠な存在である」 なんども舌でころがしてみる。

自分自身を創作する、ということについて考えを泳がせるとまた「嘘」につながってゆく。ちょっと時間があいた夕刻。

絵はグエン・ジョンの大好きな作品。

■■安吾の「魂の問題」■■2010.6.14

Kiki「諸君は罪を知っているか。罪とは何ぞや。貞操を失う女は魂の純潔も失う、と。しかり。

家庭に安住する貞淑にして損得の鬼のごとき悪逆善良なる奥方を見よ。魂の純潔などはない。魂の問題がないのである

知人から一通のメールが届いた。かなり前の食事の席で、貞操観念とかその周辺のことが話題となって、私が大好きな坂口安吾の言葉をひいた(らしい)。そのことを思い出して正しい文章を知りたくなったので本の名前を教えてほしい、という内容だった。

私はこれをすっかり「悪妻論」のなかの文章だと記憶していて、見つけるのに時間がかかってしまった。

エゴイズム小論」だった。

きちんと赤線がひいてあった。(!!)マークまであった。

ラインを引いたのはもう二十年も前のことで、初めて読んだときのことが鮮やかによみがえった。

あのときは、魂の問題がない人たちのことを軽蔑することによって自分をすくっていた(もちろん自分にはあると思っていた)。

今は自信がない。

ただ、魂の問題という、こういう種類の言葉を使いたがる私のような人と、そうではない人たちが世の中には存在するのだ、ということはわかる。

どちらが正しいわけでもなく、永遠に、交わることはないということも。

もうひとつ思うのは、あらためて男女の関係に、それが夫婦であっても恋人であっても、損得の感情を持ちこむことが私はとても嫌いなのだ、ということだ。

私はメールをくださった彼女の心中を知りたいと思った。

彼女への返信にも記したけれど、それを教えてね、という意味ではない。

具体例を知りたいわけではなく、彼女がどのような事柄に出会って、どのようにそれと向かい合って、魂の問題を思い出したのだろう、という彼女の心の動きを想像してみたくなった、という意味だ。

人間というもののややこしさとうっとうしさと愛しさがそこにあるように感じる。

外は暗い緑のなか雨が落ちて、その合間に濃い霧があらわれてはいつの間にか消えている。

これ、つまり仕事があまりはかどらずに外をぼんやり眺めている時間が多いということ。

写真は大好きなキキ。

■■中島みゆきと坂口安吾■■2010.4.14

31wcptqg35l週末に、DVD「プロジェクトX」を観て、ここ数年、なんとなく三人で何かを観るときは「プロジェクトX」となっているのが、しぶいなあ、と思う。

テレビのない生活を始めてもう七年が経ち、私にとってはこのうえなく快適。

どうしても、全体的に受け身にならざるをえないあの感覚と暴力的な存在が嫌い。


ああ。そんなことを書こうとしたのではなかった。

さっき、座りっぱなしでこりかたまった身体をほぐすために、掃除をした。

そのとき、音楽が聴きたくなって、久々に中島みゆきをかけたのは、プロジェクトXのテーマソングを彼女が歌っていたからだ。

「大吟醸」というタイトルのディスク、「ファイト!」という歌がある。

何箇所かで、不意打ち。

「暗い水の流れに打たれながら 魚たちのぼってゆく 光っているのは傷ついてはがれかけた鱗が揺れるから いっそ水の流れに身を任せ 流れ落ちてしまえば楽なのにね やせこけて  そんなにやせこけて魚たちのぼってゆく」


「ああ、小魚たちの群れきらきらと 海の中の国境を越えてゆく 諦めという名の鎖を 身をよじってほどいてゆく

して、リフレイン部分、


「ファイト! 闘う君の唄を 闘わない奴等が笑うだろう ファイト! 冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ」

に、坂口安吾を探した。


もうぼろぼろになった文庫「堕落論」、名エッセイのひとつ「不良少年とキリスト」の命の何行かに逢いたくなった。


生きることだけが、だいじである、ということ、たったこれだけのことが、わかっていない。

(略)生きてみせ、戦いぬいてみなければならぬ。

いつでも、死ねる。そんな、つまらぬことをやるな。

いつでもできることなんか、やるもんじゃないよ


しかし、生きていると、疲れるね。

かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。

戦いぬく、言うはやすく、疲れるね。

しかし、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。

そして、戦うよ。

決して、負けぬ。

負けぬとは、戦う、ということです。

それ以外に、勝負など、ありゃせぬ。

戦っていれば、負けないのです。

決して、勝てないのです。

人間は、決して、勝ちません、ただ、負けないのだ


こんなことを書いた人がいるのだ、とあらためて思う。


春とは言いたくない軽井沢。

もっとも嫌いな季節も、あとちょっとで終わるはず。

家にこもりっきりの毎日、活動的な人たちからは悲惨な毎日に映るかもしれないけど、書くモードに入りこめている日々は、私にとって、(苦しいけど)、好きな日々。


そして、戦っていれば、負けないのです。