■■大庭みな子■■

■人間の「自立」について■2011.4.22

110422_115501大庭みな子のエッセイは、坂口安吾のに似た匂いがある。それは思想というよりは、断定的なもの言いで、あまりにも断定的だから爽快で、「逃げ」がなくて、だから好き。いま手もとにある数少ない本のなかの一冊、『続 女の男性論』を深夜に読んだ。

「自立」について述べられたところが、昨夜は胸に残った。

自立、自立、となにか自立することがとてもよいことのように言われているが、自立=経済力と考えるのは「少し短絡的すぎるのではないだろうか」、としたうえで、

私は、ほんとうは「自立」などというものは人間にとってはあり得ないのではないかと思う。

女だけでなく、男にしても。女は男を必要とするし、男も女を必要とする。その意味では、自立という言葉は無意味である」と言う。

男の人がいなかったら自分は仕事なんかしない、自分のためだけになんて働けない、男の人だって同じではないだろうか。

だからそもそも、人間は、男だけとか女だけでは自立できないのではないだろうか」。

大庭みな子は男女間の「性」を生涯、とても大切にした作家だけれど、こんなところにも彼女が大切にしているものが見える。私はつよく共鳴する。

それにしても、多くのものが軽井沢にあるので、不便がある。

服や靴よりも音楽と本が恋しい。

ピアソラの、あのときの演奏、リベルタンゴが聴きたい、茨木のり子が金子光晴について書いたあの本が読みたい。

そういう想いが突如として突き上げてくる。

こんなふうに思えるようになってきたのも、こころが少しずつ安らいできているからかもしれない。

そう思うと、明日という日に陽がさしているように感じられる。そして、そんなふうに思えることの貴重さを、かみしめる。

■■放浪したい人間■■ 2010.6.22

Cid_f13fac74882843a8a0701133bc1ef55「偶然つかんだ居心地のよい場所に根が生えてしまうと、ひとはつまらない退屈な言葉で、自分の立場を用心深く守ることしか言わなくなります。

たとえ、それが卑劣なことだとわかっていても、ひとは不器用に、哀れに自分を合理化して、尊大ぶった処世訓を先輩顔にたれるようになります。
わたくしはそんなふうになりたくない。
わたくしは生涯放浪する魂を持ち続けていたい、と思っています。

……

ほかにどうしようもありません、という彼女の言葉に胸を打つものがあるのは、自分が思うような生き方をする以外に仕方がない、と外から与えられた示唆に従おうとしない態度なのです。わたくしもまた、ほかにどうしようもなくて、うろつきまわっています

たとえそれが「たった一日」であっても、それまでに見えていたもの、書くべきものの次に書きたいものが眼前に黒いヴェールが落ちたかのように突然見えなくなってしまうと、「生活」というものができなくなる。

それでもそれは私の我がままだし、それを百パーセント受けいれさせるにはまだ年齢的に幼いひとに対してだけは、最低限の「生活」というものをしなければ、と重い精神重い身体をひきずるようにして動く。
それは私にしてみればとても怖い感覚なので、そういうときは本にすがるしかない。

本棚の前に何度も立つ。

大庭みな子の「魚の泪」。

「泪」という字は、目を見開いたままぽろぽろと流れ出る、そういうなみだを思わせる。

クライシスモードにあるときに手にとる本のなかのひとつ。

放浪する魂、を私はもっているのだと思っていた。

けれどここ数年、それはあやしいのではないか、と疑い始めている。

サガンも放浪の魂の持ち主だった。
それを、私も同じだからよくわかると瀬戸内寂聴は言った。
そして大庭みな子も。

私は、何かを所有しそれに執着することが嫌で、家を持つのが嫌だったのだ。
根が生えるというか、身軽ではなくなることがとても嫌だった。
それでも、いろんな要因が重なり合って家を持つことになった。
そして案の定、身重になっている。

そして、それを認めたくないし否定したくもないから、普段はあまり考えないようにしているのに、こういう文章に出会うと、「違う、私もあなた側にほんとはいるんです」と大庭みな子に言いたくなる。

私は放浪する人間なのか、放浪しない人間なのか。きっと放浪したい人間なのだろう。

いつもこうだ。半端なのだ。こうありたい姿と現実との乖離。

思い出した。

女には恋愛に「溺れる女」と「溺れない女」がいる、というような本を書こうとしていたとき、近くにいた彼に私はどちらのタイプでしょう、と尋ねたら「溺れたい女」でしょう、と言われた。

その通り。

小説についての部分もあらためてじっくり読む。

「あれはみんな、わたくしが決して喋ることのできなかった、いつもいつも、想っていて、ごくりと呑みこんだ言葉です。そしてまた、相手が確かにごくりと呑み込んだのを、わたくしがこの耳で確かに聞いた言葉です。
わたくしが小説を書き始めたのは、あまりにたびたび言葉をのみこまねばならず、また、相手がのみこむのを聞いたためです」

……のみこんだ言葉で、あふれそうなんじゃないの? と自問する。