◎映画は真剣な悦び◎

◎ハンナ・アーレント◎2014.1.23

Hまだ一月なのに、今年一番の映画になるような予感がする。『ハンナ・アーレント』。

昨年末は打ちひしがれていたから、こんな大切な情報も逃していた。教えてくれたAちゃんにはほんとに感謝。

マルガレーテ・フォン・トロッタ監督。

ドイツの、女性の監督。私は彼女の映画が好きで、『三人姉妹』は1988年か89年か、岩波ホールで観て、心揺さぶられて小説にも書いたくらいだ。

劇場では観ていないけれど、『ローザ・ルクセンブルク』(1986年)は、ビデオで借りて何度か観た。ローザという女性も好きで、『うっかり人生……』にも彼女のことを書いている。

それで、ローザを演じたのと同じ女優バルバラ・スコヴァがハンナを演じている。ナチを扱っているものはこのところ避けていたから普通なら躊躇するはずなんだけど、これだけの条件がそろえば当然、躊躇を軽く超えて私はひとりユーロスペースへ。

ハンナ・アーレント。

ドイツの哲学者。ユダヤ人。強制収容所に収容されるが脱出しアメリカへ。

1963年にナチの戦犯アイヒマン裁判についてのレポートを発表し、全米で激しい論争を巻き起こす。映画ではこの時期が描かれている。最晩年まで「“悪”という問題に何度も立ち帰った」ひと。

ぶるぶるっとふるえました。

ラストのハンナ・アーレントの8分間のスピーチ。

あまりの美しさに私は涙がとまらなかった。

なにが美しいかといえば、本物の知性があり、それが勇気と合致したとき、ここまでの真実にたどりつける、というその物語が私には美しくて、自分が欲しいもの、大切にしたいものをずばりと提示されたようで、それで感動のあまり涙が出たのだと思う。

「悪」がメインテーマになっていて、私がいま、知りたいことがつまっている。

パンフレットも買った。

家に帰って娘との会話。

すごいの観てきた。

感動したの? 

感動なんて言葉は違うな。

あ、パンフレット買ったんだ、すごくめずらしいね。

何年かに一度だよ。

そうとう良かったんだね。

うん、たぶん、「出会い」だった。

パンフレットを買ったのは採録シナリオがあったから。

ラスト8分間のスピーチをもう一度じっくりと読みたかった。

とくに感じ入ったところを抜粋する。

***

世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。

そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。

人間であることを拒絶した者なのです。

そしてこの現象を、私は『悪の凡庸さ』と名づけました。

***

ソクラテスやプラトン以来私たちは“思考”をこう考えました。

自分自身との静かな対話だと。

(略)“思考の嵐”がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。

私が望むのは、考えることで人間が強くなることです。

***

悪の凡庸さ。

ほんとにそうなんだと思う。

すべてはこれがあって、信じがたい残虐行為が生まれる。

それにしもハンナがナチ戦犯のアイヒマンの裁判を傍聴したときの、あのときの視線にはふるえたな。

アイヒマンを悪人として糾弾して当然の立場でありながら、「うん? なにか違う、おかしい」と思う、その視線。

そして独自の考えを展開してゆく。

集団狂気とは対極にある個人の知の力を私は彼女に見た。私が欲しいものがあった。

私のブログを覗いてくださっているみなさん。ハンナ・アーレント。たいへんです、あんまり時間がありません。劇場を探してぜひ、足を運んでください。これ観ないで何を観るの。そんな映画のひとつです。

◎ウォリスとエドワード~英国王冠をかけた恋◎2013.11.18

Wウォリスって、シンプソン夫人のこと。

元イギリス国王エドワード8世の妻。

エドワード8世は人妻であったシンプソン夫人と結婚するために退位した。彼女がいなくては生きてゆけないと公言して。

「王冠を賭けた恋」とか「20世紀最大のスキャンダル」「世紀のラヴストーリー」とか言われるこの物語をマドンナが監督。

アメリカ現代社会を生きる、シンプソン夫人と同じ「ウォリス」という名の女性が、自分の人生とシンプソン夫人の人生を重ね合わせ、彼女の生き方、彼女が得たもの失ったもの……それを探ってゆく。

このあたりがひどく共感できて、だって、私はいつも誰かの人生と自分の人生を重ね合わせてしまうから。

もっとも胸に響いた箇所のセリフ。

シンプソン夫人の遺品が展示されている部屋で現代「ウォリス」(不幸な結婚中)が物思いにふけっている。

そこに彼女に想いを寄せる警備員が話しかける。

「何を考えている?」 「愛される喜びについて」 「愛の定義は?」 「すべてを捨てること」 ここでシンプソン夫人が登場する。幻影として。

そして現代「ウォリス」とシンプソン夫人の対話となる。

「私が捨てたもの? たくさん捨てたわよね。プライヴァシー、自由、評判」

「なぜ、できたの?」

「過去を振り返らず新しい人生を抱きしめたからよ」

「全世界を敵に回しても逃げなかったのね」

「スキを見せたら負けて傷つくわ」

何が面白いかって、たいていの人は、王冠を捨ててまで手に入れたかったシンプソン夫人という女性の魔力、シンプソン夫人のラッキーな人生とかに興味が行くけれど、マドンナは違って、

「でも、シンプソン夫人だって失ったものも大きかったはず」

という視点で見ていること。

ラストにシンプソン夫人の手紙が披露されるのだけれど、そこには夫エドワードに対する幻滅、でも、自分が選んだ人生を生きるしかないから意地でもここで生きる、みたいな決意が見てとれる。

いろいろ考えさせられた。いい映画だったな。

クリスマスイヴの日の朝に、編集者さんに完成原稿を送ることになっている。

「クリスマスプレゼントですねー」と彼は言う。

毎日毎日、今書いている一人の女性のことばかりを考えている。

休憩して原稿に向かって、ちょっと外に出てきて原稿に向かって、ちょっとお茶して原稿に向かって、ヨガに行ってすぐに帰って原稿に向かって。

その合間に「休憩」の意味で掃除をしたり料理をしたりしている。

世の中はクリスマスムード。

やっぱり私はこのムードに乗れない。つくづく思う。

だってどうしてもその意味っていうのを考えてしまうから。

同じような人ってどのくらいいるのだろう。思想が似ている人って……。

でもすこしは妥協する。

3年前に買った、軽井沢のと比べると十分の一くらいのツリーを出してきて飾ってみる。それでもそれは、彼女の喜ぶ顔を見たいから。それだけ。

私は私の人生を生きるよ。嫌なものは嫌だと、はっきりとは口に出して言えなくても、心のなかでは「嫌なの!」と、ひりひりするほどに認識している、そんな人生を生きる。そのようにしかできないから、どうしようもない。

■嫌悪にまみれる■2013.11.18

Gスコット・ペックの『愛すること、生きること』、がんばったんだけど、最後まで読めなかった。いま抱えている問題を幼少期の体験にその原因があるとする見方が合わなかったのか、やはり根底にキリスト教の精神がずっしりあることが合わなかったのかはわからないけれど、つらくて、ときに苛ついて、苦しくなって、あるとき、どうしてここまでして読まなくちゃいけないのか? と気づいて、やめた。

以前読んだときには、夢中で読めたのに。

人生は変化しているから、よくあること。

いつかきっとまた別の見方ができるでしょう。

「そんなもんじゃないでしょ」と、ずーっと感じながらの読書だった。

人間ってそんなに強くないし、崇高じゃないし、もっと複雑で、ぐちゃぐちゃしているものでしょう、ってずっと感じていた。

さいきん週末に精神が乱れる。

物書きっていう自由業なはずなのにヘンだ。

土日を「どうか原稿に集中できますように」の日とするのがいけないのか。

平日だってかわらないのに、たぶん、追われているんだな、これ。

ぜんぜん集中できないから『グレン・グールド』の伝記映画を観たりする。

カナダ出身の天才ピアニスト。

彼のCDはよく聴いている。

しかし、しかーし、観たあとに、気が滅入って仕方がない。

天才って何? 芸術って何? 

10代のころから注目されて20代で大成功をして、演奏旅行たくさんして、それが嫌になって30代初期にコンサート活動をいっさいやめて、それから20年レコーディングで自分の音楽を追求してゆく。

奇行でも注目された人だけれど、私生活は充実していなかったみたい。

母親危篤の報せにも病院の菌を恐れて行かなかったというのがすべてを物語る。

薬をたくさん飲んで、この時代はその悪影響がそれほど知られていなかったからなんだけど、安定剤、抗うつ剤、睡眠薬をたくさん飲んで、50歳で亡くなった。

ソファから立ち上がれないくらいに気が滅入った。

いま、観ないほうがよかった映画だ。

なにか創作のエナジーが得られるかと思って観たのに、負のスパイラルに陥っているということかな。

はい、時間ができました。はい、机に座ってください。スタート! 

で原稿が書き出せるなら、私にだって時間はある。

でもそうじゃないから、時間はいくらあっても足りない。

いつも祈るように机に向かう。どうか、どうか、集中できますように。

それがときに成功し、よく失敗する。

一本の電話、宅配便ですべてが崩れるときもある。情けない話だが。

書いている物語世界の中と現実との間で引き裂かれるようなあの感覚は最悪。

でも自分で選んでしていることだから、すべて。

負のスパイラル真っ只中では、感情のコントロールがうまくできなくなる。

激情に走るか、あるいは不感症になるか、極端なことしかできない。

そして、その結果、ひどい自己嫌悪にまみれる。

それでもいつまでもベッドにもぐりこんでいては生きてゆけない。

自分はそれほどひどくない、と思わなければ生きてゆけない。

だから誰も言ってくれないときには鏡を見ながらつぶやいたりして、笑いかけたりまでする不気味な女になる。

◎「愛のあしあと」◎2013.11.11

61lhwluzkdl『愛のあしあと』、DVDで観賞。

びっくりした。ものすごい名作!……だと思うのに、それほど話題にならなかったような気がする。

公式サイトを見ると、20136月の終わりに2週間の限定公開だったって。

私にとってはどうでもいいような映画がお金かけて宣伝されている一方で、この映画がそんな扱いをされているなんて、あまりにも悲しすぎる。

この映画、女優3人の存在が、とにかくすばらしい。

カトリーヌ・ドヌーヴとキアラ・マストロヤンニ、実の母娘の共演。

キアラのお父さんはあのマルチェロ・マストロヤンニだから、もう、血がすごいんだけど、でも、どんなに優秀な両親のもとに生まれても両親の存在につぶされる子もいるから、そんななかにあって、キアラは強い、強烈。

そしてその母娘におしつぶされることなく輝いているのがリュディヴィーヌ・サニエ。

映画は、一応のストーリーはあるけれども、とにかく混沌としている。

キリスト教モラルとか、なんとなくの世間一般的なモラルとか、そういうのが機能しているようで機能していない。

ようするに愛に敏感な種類の人間というものの姿を美化することなく描いている、そんなかんじ。でも奇妙なことに、みんなが美しい。

愛がなくては生きられない。

というテーマがひとつあるけれども、その生き方をした結果が、やるせない。

愚かで自己愛に満ちて、そんななかでがらにもなく家族や友を想いやったりして。死があって。

けっして明るい物語ではないのに、全体的に陽気な空気が満ちていて、見終わったあと、しみじみと生きるということへのエナジーみたいのがわきあがってくる。

こういうのを優しい映画と言うの。

◎マリーゴールドホテルで会いましょう◎2013.10.20

81belusm5sl__sl1500__2***

本当の失敗とは「やらないでおくこと」。


喜びは失望を振り払って手に入れる。それが人の常。

 


変わるにはもう年だと思うときもある。

失望後のやり直しが怖いときも。

 

朝 目を覚まし 必死に生きる ただそれだけ。

 

リスクを嫌って冒険を避ける者は 何もせず、何も得ない。未来は現在と違う。

わかるのはそれだけ。

 


人が恐れるのは現在そのままの未来。


だから変化を尊ぶの。

***



『マリー・ゴールドホテルで会いましょう』、ラストのセリフ。


老年の人たちの人生が、ポジティブに描かれている映画。

長生きするのも悪くはないかも、とか、いくら年齢を重ねても幼さをずっとにぎりしめている人というのがいるのだな、とか、何かをし始めるのに遅いということは絶対ないんだな、とか、何年生きたかではなくどのように生きたのかが私には大切だな、とか、人生のなかで充実した時間をどれだけもてるか、だよね、とかそんなふうなことを感じながら観た。


それにしても、注意していないと、思いがけないところで足をすくわれる。

映画の話ではなく、映画を観終わったあとのこと。


心のどこかの部分、油断していたら孤独っていう縄みたいなものに足をすくわれて転んだ。雨の日曜日。

◎マリリン・モンロー 瞳の中の秘密◎2013.10.16

811qbc77vll__sl1500_『マリリン・モンロー 瞳の中の秘密』を、新宿で観た。

死後50年経って公開された手紙や日記、メモからは、いままでのマリリンのイメージを覆す、必死に生きようとする1人の女優の肉声があった。

それに感銘を受けたひとたちが作った、マリリンのドキュメンタリー映画。

著名な俳優がたくさん出てきて、マリリンになりかわり、その苦しみや希望を「語る」。

とてもユニークな作り方をしている。

それは成功していたと思う。ラストまで緊張感臨場感が続いたから。

私は誰かがマリリンを演じている映画は好きじゃないけれど、これはドキュメンタリーなので、本物のマリリンがたくさん見られる、大きな画面で。

そしてマリリンの声も聞ける。
大好きなマリリンだから、ただ、見ているだけでいいんだけれど、それでもどこかで、おそれがあった。

そう、私のマリリン、『マリリン・モンローという生き方』、これとかけ離れている部分があったら嫌だな、というおそれ。
けれど、とても嬉しいことに、まったくといっていいほど、それはなかった。

私のマリリンと、このすてきなドキュメンタリーのマリリンは、ほとんど同一人物だった。

私が伝えたかったマリリンが、スクリーンにいた。

重くあたたかな充足感が胸を満たした。

書いてよかった。

そしてあたらめてマリリンの美しさに魅了された。

彼女はやはりこんなに美しい。

■■あるがままを見つめ■■2013.6.28

Dsc_0164情をもってしたことが相手に迷惑がられることがある。

愛情をもってしたことが相手を傷つけることだってある。

そんなことが重なると無人島に行きたくなる。

昨夜からの重い気分が朝になったらもっと重くなっていて、『めぐりあう時間たち』を見る。

もう、これだけ回数を重ねると見るというより、その世界にたゆたうというかんじ。

途中でうとうとしまったりもする。

そうして身体と精神を今日一日生きられるようにしているのだと思う。

今朝は、映画のラストの言葉が胸にささった。

ヴァージニア・ウルフが夫レナードにあてて書いた手紙のフレーズ。


***

人生に立ち向かい いかなるときも 人生から逃れようとせず 

あるがままを見つめ 最後には受け入れ あるがままを愛し 


そして立ち去る

***


コースターのマリリンと目を合わせる。

今日できることをできるだけするしかない。

せめて原稿書いているときは、どんな嫌なことも忘れていられる精神力が欲しい。

■■「ある海辺の詩人」と「暦ある暮らし」■■2013.4.1

81546cb2ql__sl1500_あなたを温める灯りは必ずある

というキャッチにこころひかれ、舞台がヴェネチアからすこし離れた島、キオッジャということもあって、観に行った。

少し早く着いてしまって、銀座だからふだんならウインドウショッピングでもするところなのだけれど、そんな気分ではなく、映画館に入って、ひとり座って上映時間を三十分以上待った。こんなこと初めて。

映画は、よかった。観て、よかった。

美しい映像が、数少ないけれど輝くようなセリフが、そして沈黙というものが、これほどまでに心の叫びを表現しうるのだということを、私は体感した。

映画館でだからこそ得られる体感だと思う。

これはひとつの出逢いだった。

直前にこのブログに書いた「Help!」が私をここに連れてきてくれた。そんなふうに思えた。

何も考えず、映画のなかのキオッジアに溶けこんだ。ラグーナに浮かぶ美しい漁師町。

以前に友とふたり訪れたヴェネチアで、別行動をした一日。

友はキオッジアに出かけ、漁師のおじさんたちのことを話してくれた。

主演のチャオ・タオが魅力的で、そしてその友に顔立ちも、慎みのあるところも、するどい感受性をもつところも、よく似ていて、懐かしかった。

私はこの映画にやわらかく慰撫された。

大岩綾子(寂綾ーじゃくりょう)さんが開催する『暦ある暮らし』の会と、似た感覚だった。

旧暦のある暮らしを私たちに教えてくれる会。

綾子さんの手づくりのお料理は、繊細で、あたたかく、おいしい。二時間、暦というもの、旬のものをいただくということの美しさを、私は彼女のお料理で教えられる。ほかのことは考えない。綾子さんのお料理に集中する。このような会を私はほかに知らない。

『暦のある暮らし』の二時間は、私にとって、食の映画なのだと思った。

◎ダイアナ・ブリーランド◎2013.2.8

71qjzpk4qel__sl1024_気づいてみれば昨年はあまり映画を観なかった。

映画館でも家でも。

映画中毒みたいな季節もあるのに、気づいてみれば「あまり映画を観なかった」だなんて、自分の言葉とは思いたくない。

今年はじめての映画は、1月初旬に文化村で「ファースト・ポジション」。

バレエに人生をかける少年少女たちの姿。バレエをやっている姪とその母(私の妹)、そして私の娘の4人で観た。ドキュメンタリーで、わりと面白かった。

ああいう世界に生きていたこともあったような。勝ち負けが全ての世界ね。一瞬で勝負か決まる世界。一日でも練習を休むことは許されない世界。小学校では珠算で、中学高校ではテニスで。

そんな私がどこがどうなったら、こんななまけものになるのか。人生は不思議。

二つ目の映画は1月下旬、シネマライズで「ダイアナ・ヴリーランド」。

ひとりきりで観た。

この手の映画は、カップルが少ないのでほっとする。男も女もひとりきりで観に来ている人が多い。

さて。ダイアナ・ブリーランド。

伝説のファッショニスタ、「ハーパース・バザー」のカリスマ・エディター、「ヴォーグ」編集長。

とにかく20世紀ファッション界の発端はいつも彼女だった、といわれている。

シャネルより20歳くらい若い。

そしてシャネルと同じくらい長生きした。86歳。

晩年のインタビューがこの映画をナビゲーションする。しわがれた声、自信に満ちあふれた瞳、尊大なオーラ、誰かに似てると思ったら、シャネルその人だった。

ただ、ダイアナは結婚して息子たちもいる。

でも、息子たちのインタビューなんかをみると、ほとんど家庭をかえりみず仕事に没頭していたよう。息子たちは淋しかったんだよう、みたいなこともちらつかす。

ほらね、と私はこころのなかでひとり言。

これだけの仕事量こなして、これだけの名声を手に入れるには、家庭、子どもたちのことに手をまわしていたら不可能。

よくぞ、「産んだ」な、と思う。

産むだけだって、大変だから。

そんなふうに思うから、私はダイアナを、

「シャネルが結婚して子どもを産んだらこんなふうになっていたでしょう」

というような眼で見た。

あまり魅力的には映らなかった。

なぜだろう。

唐突だけど、ぜったいにこの方、狼は生きろ豚は死ねって考えているな、と思うからか。(この言葉、若いころは好きだったけど今は嫌い)。

こころのひだとか、強いのと弱いのとの間に存在する、迷うたましいみたいなものと縁がない人に見えたからか。

私、長生きできたら、どんなふうになっていたいかな。

なんて考えた。80を越えたくらいの年齢。想像もできないけど(生きているとは到底思えないから)、ダイアナみたいなのは嫌だな、シャネルみたいなのも嫌。

じゃあどんなの? っていうのもないけれど、マイナスの選択はけっこう人生に有効なので、「嫌」を認識しておく。

◎Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち◎2012.4.14

120405_123853もうずいぶん前のことだけれど、ピナ・バウシュの映画を観てきた。

この分野は疎いから、言葉を使うのがこわいかんじがする。

だから簡単に表現すれば「踊る」という人間の行為について、深く考えさせられた映画だった。


踊ることによって、人は自分のいのちに、何を吹き込むのか、そんなことを。よい時間を過ごせた。


3Dでなければもっとよかったのに。私は3Dが嫌い。


そして、こころに響いたワンセンテンス。


ピナ・バウシュがダンサーの一人に言った言葉。書きとめたわけではないから、正しい引用ではない。

ピナは言った。


踊り続けなさい。自分を見失わないために


私の場合は「踊る」ところに「書く」がくる。


ああ、それぞれのダンスがあるんだな、と思った。演じる、読む、描く、走る……。

周囲にいる人たちの顔を思い浮かべた。彼の、彼女のダンスはなんだろう、と。


桜の花が開いて、満開になっておそろしいほどのエネルギーをまきちらして人をくるわせて、そしてやがて雨のなか、濡れて舞っている。もうちょっとで私が大好きな葉桜の季節がくる。