■■中山可穂■■

■「小説を書く猫」 中山可穂■2011.5.12

110512_095601待望の新刊が出たことは知っていた。

ようやく彼女の本が読める状態になって購入、一気に読んだ。

はじめてのエッセイ集で、小説とはまた違った味があった。同じ物書きとして読むと、泣けてしかたない箇所も多かった。

中山可穂のデビュー作『猫背の王子』を世に送り出した編集者の方は私の小説を世に送り出してくれた方でもある。

それを知ったときは胸がつまりそうになったものだ。

この世の塵にまみれていたらこういう小説は書けない。タンゴを踊っているあいだに、世界が終わったとしても、わたしは読者の胸をかきむしる愛の物語をいつまでも書き続けていたいと願っている

アナイスの言葉を思い出す。

……殺されるなら、踊りながら殺される

私も大好きな小説『感情教育』についてのエッセイの、この部分は胸をうたれた。

前世でもぎ取られた自分の片割れが今この腕のなかにいるのだと、心から信じあうことができたからだろう。

彼女と抱き合っているとふたりでひとりなのだと思うことができた。

交合した姿こそが完璧な形なのだと思うことができた。

これまで誰かとセックスをしていて、そんなふうに思ったことは一度もない。

相手のからだは自分のいとしい一部であり、自分のからだはすみずみまで相手のものだった。」

 

「この奇跡の恋愛のことを、わたしは『感情教育』という小説に書いた。

(略)もう二度とこんなすごい小説は書けないだろう。

半身とはこの世にたったひとりしかおらず、もう二度とあんなすごい恋はできないからだ。

そういう意味では『感情教育』は奇跡の小説と言えるかもしれない。」

自分の半身。

これはプラトンが言った言葉として有名だ。

私が娘に捧げた著書「いい男と出会えていないあなたへ」というタイトルをつけられた恋愛論にも書いた。

恋とは、二つの半身を一つにして、人間本来の姿に直してくれるもの」(プラトン)

ここからはじまってつい、久しぶりにざっと読み返してしまった。

ピアフとセルダンの悲恋にずいぶん力を入れて書いているけれど、そのなかで、あらためて胸うたれたエピソードは、セルダンを事故で失ったあと、ピアフは絶望のあまり自殺を試みるのだけれど、一歩前で踏みとどまる。

そして後に言っている。自殺を思いとどまらせたのはセルダンだったと。

私は次のように書いている。

***

ここには、愛のひとつの姿があります。

 

それはとても愛しい人が亡くなったとき、その愛が深かったなら、残されたほうは自殺を思いとどまるということです。

「死んではいけない」と亡くなった相手が言うように思えて、愛されている実感があればあるほどに、愛しい男の悲しい瞳が目の前に迫って、死ねなくなるということです。

ピアフは「本当の勇気とは、最後まで生きぬくことなのです」と言いましたが、これはピアフに対するセルダンの、セルダンに対するピアフの想いが深かったことの証ではないかと思うのです。

***

この考えはいまも変わらない。

そしてピアフとセルダンの恋愛も、奇跡的だった、とあらためて思った。

本当の勇気をもちたい、もたなければ、とも思った。そしてなにより、私も奇跡の小説を、いつかきっと。