■■須賀敦子■■

■■怠慢は嫌いなのに■■2013.8.21

Img_20130821_142945須賀敦子、『ユルスナールの靴』から胸に響いたところをまた書いてみる。

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精神が、知性による判断の練磨でありその持続であることに私は気づいていなかったのだ。

そして「たましい」に至るためには「精神」を排除してはなにもならない、ということにも。

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精神と知性、たましい、に考えを泳がせる。

怠慢でいると精神性がにごってにぶってうすよごれてくる。このところの私はひどく怠慢。

自分をけとばしたくなる雨の夕刻。

■■恋は懲らしめ……■■2013.8.15

Img_20130815_125518久しぶりに須賀敦子『ユルスナールの靴』を読んだ。

美しい文章は、あたまのなかの汚れたものを拭いとってくれる、そんなかんじがする。

そんなふうにこのところ強く感じるものだから、ラインをたくさん引いてしまった。

そのうちのいくつかを。ユルスナールの『火』から。

これはユルスナールの「狂気に触れる」ほどの激しい恋が不毛に終わったあとに、生まれた作品。

だからか、胸に迫るものがある。

狂気にふれるほどの恋を経験したと思えている人にとっては、たぶん。

なにも恐れることはない。わたしはどん底に触れた。あなたの心よりも低いところに落ちることはできない


恋は懲らしめに似ている。わたしたちはひとりでいられなかったから罰せられているのだ


私は、恋をしていないと書けませーん、とか言っているけれど、もちろんこれはつねに誰か特定の人と恋愛をしている、というわけではなく、恋から離れないでいるということだ。


そして、恋愛の最中はたいしたものは書けない。

狂ったようなメモは残せるけれど、それが作品として結実するのは、長いときが経ったあと。

それにしてもユルスナールの表現は秀逸。


「なにも恐れることはない。わたしはどん底に触れた。あなたの心よりも低いところに落ちることはできない」なんて思い出し笑いじゃなくて、思い出し泣きができるくらいでしょう。


そう、「なにも恐れることはない」と思えることの、あの絶望。


「恋は懲らしめに似ている。わたしたちはひとりでいられなかったから罰せられているのだ」


あの苦しみは、懲らしめられているんだって、罰せられているんだって。

ひとりでいられなかったから、罰を受けているんだって。


マリリンは自由でなければ息ができなくなっちゃうひとだったけれど、ひとりではいられないひとでもあった。だからあんなに苦しんだのかな。まるで他人事のように書いている私はずるいな。


ひとりきりになりたくて、叫びたくなることだってあるのに、ひとりきりがさびしくてさびしくてどうにもこうにもならないときがある。自分がうとましい。仕事まみれの夏の盛り。

■■須賀敦子に接する■■20113.4.22

T_教会を出ると、雨はほとんどやんでいた。

ぽっと明るみのもどった歩道に下りたときはじめて、私は、たったいま、深いところでたましいを揺りうごかすような作品に出会ってきたという、稀な感動にひたっている自分に気づいた。しばらく忘れていた、ほんものに接したときの、あの確かな感触だった。」


カラヴァッジオについての原稿を書いていて、須賀敦子を思い出した。

彼女がカラヴァッジオの「手」についてどこかで書いていたな。

書棚を探して見つけた。『トリエステの坂道』に収録されている『ふるえる手』というタイトルのエッセイに、それはあった。

よみふけってしまった。

ほんものの文学に接して、自分を律した。

ぜんぜんだめだ私。

自分だけはごまかせないんだから。


須賀敦子にふれて、思った。

どんな環境にあっても、そこからだけはそれちゃだめ。

言葉への想いを、すこしでもおろそかにする人間に文学を口にする資格はない。


たよりない色のカーネーションがきれいに見えて、買って帰ったのは先週の火曜日。たよりなさはそのままに、それでもまだ咲いている。